「積ん読」・「深読み」・・読書について考える

この記事は、以前の「積ん読マネジメント」の記事を加筆・修正したものです。

 

読書には、どんな意味があるのでしょうか。世の読書家は何を思って、読書をするのでしょうか。この記事を今読まれている皆さんにとって、読書にはどんな意味がありますか?

 

僕は、数年前から読書を「すべきもの」だと思い、読書をしてきた人間です。ただ、そのやり方や、根底にある読書の意義については、当時と今では随分変わったな、とも感じます。この記事では、数年前の自分に向けて、読書の意義ってこうじゃないか?と当時よりも少し広くなったであろう自分の考えを整理して書き起こしてみようと思います。

 

※この記事においては、あくまで、読書を「役に立つ・立たない」の軸で捉えて考えています。娯楽のためにエッセイや小説などを読むのであれば、それは今回の記事の題意からは離れた問題なので、思う存分に楽しんでください。

 



「積ん読」の良し悪しについての結論

この記事を修正する以前の記事で、僕は「積ん読は悪くない」、「読みたくなる瞬間はまた必ず来る」と、積ん読を肯定しています。現在、僕はこれについて、半分賛成、半分反対です。気になる本を買っておいて、積んでおくことには賛成なのですが、一つのジャンルであまりたくさんの本を積まない方が良い、というのが僕の考えです。

 

仕事で、ある業界・業種の知識をザッとスキャンするのが急務である場合、同じジャンルの本を何冊も買うのは合理的であると考えられます。一方、知識を使う目的がはっきりしない思索的な読書や、積ん読のような読み方において、似たジャンルの本を同じ時点で何冊も買うとどうなるかというと、ある本を読めば事足りたはずなのに、余分に本を買ってしまうことにもなるのです。

 

結局、その時点で琴線に触れるものを買って積むわけですから、琴線に引っかかるものも、似たようなものになってしまいがちなのです。その琴線をずらすために、読んでは買って、読んでは買って、を繰り返した方が、読書の歩留まりを上げられるのだと最近気が付きました。

 

ゆえに、積ん読については、基本的に読んだ内容から新たな興味を喚起させ、その興味に応じて徐々に買って読み、深めてゆけばいい、と考えます。

 

その興味が複数テーマあれば、複数冊を積ん読してしまうことはあると思います。例えば、僕には今、いくつかの関心あるテーマがあります。

  • 人の欲望の根源にあるのは、所属の欲求ではないか?
  • 資本主義をどのように修正すれば、幸福度を上げられるのか?
  • 人の個性や趣味は、どのように作られるのか?

などなど・・

知識を使う目的がない思索的な読書については、一つのテーマにつき、1冊ずつ読んでゆく程度でもあまり問題なさそうなので、気になる本がいくつか現れても、そのすべてを買ってしまうのではなく、順番を仮にでも決めて、その順序で随時買って読んでゆく、くらいの「ゆるい積ん読」のほうが良いと感じます。ちなみに、1冊を読み終える頃には、おそらく元の順序通りにはなりません。1冊読むと、買った本から別のところに興味が移り、その興味に関する本が欲しくなるからです。

 

「似たジャンルについてたくさん本が欲しくなったら、順序を決めよ」「随時買う」これが、現時点での積ん読のルールです。

 

読書には意味があるのか

読書には意味があるのか。これには様々な意見がありますが、個人的には、その人の立場によって、世に求められる最低限の読書量が異なり、その基準をクリアする必要はあると感じます。

 

その基準さえクリアしていれば、それ以降の思索的な読書は、8割は娯楽と割り切るべきで、「将来役に立たせる」という大義を掲げ、声を上げるのはどうかと思います。

 

思索的な読書は、あくまで静かな楽しみとしてすべきだというのが、僕の考えるところです。もちろん、思索的な読書は、いつか自分が世から求められるようになったとき、自分を助けてくれるものだと思うので、積み上げておくことに越したことはないと思いますが。

 

話を戻して。「世に求められる読書量」の内訳についてですが、これはジャンル云々の問題ではなく、読んできた活字の量が重要なのだと感じます。

 

今の自分の立ち位置において、複雑な情報処理が必要になるのであれば、求められる情報収集・処理(読解)スピードもハイレベルですから、文章を読み、理解する早さも重要です。そのスピードを高めるのが、読書の積み上げなのです。この練習を早いうちから行って、自分の立場相応の情報処理スピードに達しているならば、実利的に考えて「読書に意味はない」というのもわかります。

 

一方、自分の立ち位置に求められる情報処理スピードに、自分の情報収集・処理が追いついていないと考えられる場合、文章や言葉に対する処理能力、つまり読解力が不足していると考えられ、この場合、見合ったレベルに達するまで、普段の筋トレとして読書をしたほうが良いと感じます。

 

僕自身、数年前とは情報処理に要する時間が大幅に変わりました。それに伴って、読書の深さも変わってきたと感じます。振り返ると、読書を習慣にし始めてからの約6年のうち、はじめの2年くらいの間は、読書を血肉に変えられていなかったと今では反省します。一方で、その当時から文章を読む練習をしてきたからこそ、今の情報収集・処理スピードがあるのだと感じます。まだまだですがね。

 

ちなみに、基準に到達するまでの読書も、書籍でなければならないのではなく、文章を読み、その内容を理解する事が重要なのであって、それは、新聞でも小説で雑誌でも、何かのテキストでも、なんでもいいと思います。

 

ここまで読んでもらえた方にはわかるかもしれませんが、「本を読むのは意味がない」という人には、2パターンいます。一つ目は、すでに読解力を高められている人です。実はこの人、既にかなりの文章を読んできている人です。ですから、読解力がまだないと実感している人が、そういう人の意見を鵜呑みにして読書をしないでいるのは、さらに自分の首を絞める行為になりますから、あまり気にせずに本を読んだ方が良いと思います。

 

もう一つのパターンが、そもそも読書することや、読解力が求められない立場である人です。手を動かし、最低限の言葉が話せ、ルールを守れれば、問題ないという人です。このパターンの人の「読書意味無し」は、実際に的を射ています。

 

読書をしたほうが良いのか、しなくても良いのか。あるいはしたいのかは、自分が決めること、決めなければならないことで、あまり人の話には耳を傾けなくても良いと思います。

 

意味のある読書とは何か

そんな事をいいつつ、僕自身、その血肉に変えられない読書をいつまでも続けていたらと思うとゾッとします。そこで、その血肉に変えられない読書と、そうでない、血肉に変えられた読書では、なにが違うのか、という事について、整理してみます。

 

結論として、以下のことを僕は考えています。

 

「読書は、考えを集めるためのものではなく、自分の考えを広げたり、深めたりするためのものである」

 

言い換えると、以下のことも言えると考えます。

 

  • 本を読んで、その内容をツギハギ・パッチワークにして「自分の考え」を作るようでは、読書を自分の血肉に変えるのは難しい。
  • 読書におけるゴールは、「場合による」と答えられるようになることである。

 

まず上ですが、誰かの本に書いてある「誰かの意見」を、自分の意見として扱うのでは、読書をしても、自分の思考を鍛えることにはならない、ということであり、それは、どれだけ読書をしても、「読解力」は向上しない、と言うことです。

 

この違いについて具体的な事を言うと、「〇〇は✗✗だ(とだれだれが言っていた)」というような引用の状態が、ツギハギ・パッチワーク的な読書です。これに、自分で根拠を考えて乗せて言えるのかどうかによって、血肉に変えられているのかそうでないのかは、徐々にわかります。端的に言うと、唇になじまない言葉はすぐにバレます。

 

そして下についてです。「場合による」と言える人は、様々な条件によって、とるべき選択肢や、適した考え方が異なる事を理解している人です。どんな状況においても「これをやっていれば大丈夫」という結論はありません。自分の探している答え自体が、動く的であることを理解しているのです。これは、謙虚である、とも言いかえられると思います(ただし、「場合による」としか言えず、それ以降の具体例が出てこないのであれば、それはそれで知識を実践的知恵に昇華できていないとも思います。)。

 

謙虚だからこそ、自分の考えに穴はないか、あるとしたらどんなところか。それはどのような条件によって分岐されるのか。それを常に追いかけようと思えるのです。

 

また、自分の取るべき選択肢が、実はもっと細かくわけられ、考える余地があることも、常に考えています。そして、それを得られるのではないか、という知的好奇心から、読書をするのです。

 

本とは、人の意見の結晶で、それを読むことによって、自分にはなかった考え方を知れ、自分との違いを分析することで、自分に不足していた部分に気が付かせてくれるものです。その内容がそのまま自分の考えになるわけではありません。



 

読書を意味あるものにするために

ここまでは、読書の意味について考えてきましたが、最後に、読書を意味あるものにするために、個人的に大事にしているポイントをいくつか挙げます。

 

  • 読みたいと思っているのか
  • テーマに沿っているのか
  • 仮説(問い)はあるのか

 

まず、読みたいと思っていなければ、内容が入ってきません。それでは、血肉にも変わりません。とりあえず、ためになる、役に立つ以前に、読みたいのか。これが重要だと感じます。

 

次に、テーマに沿っているのかですが、自分で「〇〇について」など、テーマを決めて、その軸で本を読んでゆくのが良いと考えます。例えば、僕は貿易の歴史について本を読むのが好きですが、それは、マーケティングにおいて重要な消費者心理を理解するのに役立つと考えているからです。そして、貿易と関わりが大きい経済について学ぶことも、それに関係すると思い、経済についても学び、考えています。そうやって、アダム・スミスやリカード、ケインズ、リチャード・クーダニエル・カーネマンにたどり着いた次第です。

 

また、自分の人生設計に、企業の経営戦略を活かせるとも考えています。ゆえに、僕は経営分析を個人的に重視し、常にアンテナを張りつつ、財務・事業運営などの知識やケースも、このテーマに沿って集めています。このブログの企画の一つである「ゆるリサーチ」は、その知識のアウトプットの場としての側面でもやっています。

 

思索的な読書は、ジャンルで読む本を選ばなくてもよいと個人的には考えています。あるテーマに沿って、どんな情報が自分の考えを広げたり深めたりするのに良さそうか。ひいては、自分の人生を良いものにできそうか。そんな事を考えながら、ぼやっと手を伸ばすようにしています。これがとてつもなく面白くて、たまらんのです。

 

最後に、仮説があるのか、ですが、これは今述べたこととほぼ同じで、「どんな情報を仕入れれば、自分の考えを広げたり深めたりするのに良さそうか。」という、算段です。ここで重要なのは、あくまで「自分の考え」を起点にすることです。正直な話、僕の考え自体、いろんな人の考えに影響を受けてつくられたものなので、「自分の考え」というのも微妙なのですが、それでも自分の関心あるテーマについて、仮の答えを作って、それを検証する道具として、読書をすることが、本の内容を血肉に変える上で重要かな、と感じます。

 

以上です。ここで書いたのは、僕という一個人が自分の経験から学んだ「読書の意義」ですから、これが正解というわけではありません。

 

それでも、今これを読む誰かにとって、より良い読書になるきっかけになれば、幸いです。

 

制作:メディアに学ぶ

提供:あたまのなかのユニバース

 




やてん

シェアする

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

コメントする