「これには意味があるのか」と悩んだら、読んでみてほしい文章

誰しも、何かに取り組みたいと思ったとき、あるいは、漠然と何かに取り組みたいと思っているとき、あるいは「これをやってくれ」と頼まれたとき、次のことを思うはずです。

 

「これをやって、本当に意味があるのか」

 

この言葉は、「これをやって無駄(損)にならないか?」とも言いかえられると考えられます。人はいつだって、自分が損をすることに敏感なものです。

 

だから、意味がないと判断したものには手を出さないし、意味があると思えるものの中で、今度は自分に合っていると思うものを探して、「これだ!」と思うものに出会えたら、それに手を出す。そんな感じかと。

 

ましてや、合う合わないを検討せず、意味がある(もっと直接的に言えば、名声を満たす、収入を上げる)だけを追求して自分の時間を投下できる人もいるでしょう。

 

今回のテーマは、「意味がある」という認識についてです。

 

僕は、この「意味がある」について、思うところがあり、自分がそうだっただけに、「意味」を追求して囚われすぎることに危険を感じています。

 

今回は、自分が「意味」について思うことをいくつか断片的に共有できればと思います。

 

そもそも「意味がある」とはどういうことか

まず、「意味がある」の意味から考えてみます。

 

これは先述しましたが、きっと、「自分の収入が上げたい」、とか「人から承認されたいとか」「感謝されたいとか」「解明したい」とか、自分の欲が向いている方向にとって、ポジティブに作用するのか?という目的から導かれる概念だと考えます。

 

また、それにかける時間的、あるいは金銭的コストも検討して、「効率(コストパフォーマンス)」を算出して、これをゴールにして考えるのかもしれません。

 

きっと、世の中で言われる「意味がある」の定義域は上述ほど広くなくて、率直に「楽して収入を上げる」「楽して認められる」を意味すると言えるかもしれません。

 

この記事でも、この「楽して収入を上げる(or 認められる)」について、つまり、狭義の「意味がある」について、考えます。

 

やる前から「意味がある」と気がつけるものは、足も速い?

次に考えてみたいのが、「意味がある」と、やる前から判断できるものについてです。

 

例えば、仕事上のテクニック本とかがこれに当たります。あるいは、資格や副業に関するノウハウとかでしょうか。

 

もちろん、業務上、毎日使うようなものを会得していないのはまずいですから、それを会得するうえでは本を読むことは重要で、むしろそれを放棄するのは怠慢だと言えるでしょう。

 

一方、スキルアップとか、キャリアを考えて、とか少し先を見据えて何かに取り組もうとする際に、やる前から「意味がある」と認識できてしまうものに手を出すとどうなるのかと言うと、それは過当競争の中に身を置くことになります。

 

今風?少し前風?に言えば、レッドオーシャンである、とも言えます。何もやらないよりは良いのだとは思いますけどね。

 

きっとそのうち、今でこそ人材不足だと言われているプログラマーも、人数が増えすぎて、賃金が安くなるのだと思います。

 

政府の試算ではここ何年も人材不足が続くと言っていますが、それはプログラマーがいなければシステムを作れない市場構造だからであって、誰でも簡単に自社の基幹業務システムを作れるようなサービスが一度増現れれば、手作業の田植えが田植え機になるのと同じくらいの職業移動のインパクトがあるはずです。

 

そんな風に、今「意味がある」とすぐにわかって、誰でも手を伸ばしてしまえるようなものは、日々たくさんの人が手を伸ばして、やりはじめているものです。

 

そして、少しすれば、はじめ求めていた「意味(旨味)」は、なくなってしまうかもしれないのです。すぐに賞味期限がやってきて、その恩恵も受けられなくなってしまうのではないでしょうか。

 

かといって、足の速さをやらない理由にする必要はない

という、ネガティブな側面について話すと、ではプログラマーやエンジニアになることにはもう「意味がないのか」?と思われるかもしれません。

 

また、動きはじめてている人の出鼻をくじくような話にも聞こえてしまったかもしれません。

 

しかし、それも違います。そもそも、意味のあるなしに関係なく、いつの時代も立ち止まっていることのほうが危険だと思うので、何かには時間を投下していたほうが良いと思います。

 

ただ、やる前から自分が「意味がある」と思って手を出すものの「意味」には、みんな気がつくし、人が増えたり、あるいは一瞬の環境変化で、あっという間に期待していた「意味(旨味)」はなくなるかもしれないことを想定していることに、「意味がある」と思うのです。

 

今それに手を伸ばせば、人材需要が高い恩恵を受けられる期間が数年でもあるかもしれませんし、そうであるならその数年の果実でも採っておいたほうが良いですし。

 

重要なのは、「意味」は、目指す方向として持っておいても、その方向に一直線で障害なく進められるとの期待は抱かないことだと思います。

 

「意味がある」のに挫折する人と、「意味がない」のに挫折しない人

この話の延長線にあるのが、挫折についてです。

 

「意味がある」と思って始めたプログラミングに挫折してしまう、これをやりたいと思っても、すぐやめてしまう。そんな人がいる一方、なぜか続けられる人もいます。

 

しかも、続けられる人の中には、「意味がある・ない」など特に考えないニュートラルマンもいます。僕の妹は割とそれに近いように思います。

 

挫折してしまう人が挫折する大きな要因は、「意味がある=コスパが良い」の期待値が大き過ぎ、特に分母が小さすぎる(時間投下が少なすぎる)事です。

 

前者に比べて後者のほうが頑張れるのは事実だと思いますが、それが簡単かどうかは別の話です。

 

才能を信じすぎている人や、その人の結果や肩書でばかり人を判断する人も、これに当たりそうです。

 

やったことがないことなのだから、できないほうが当たり前なはずなのに、なぜか躓くと歩くのをやめてしまうのです。

 

「意味がある」に固執すると、障害にぶち当たった結果、ただ無力感が残る人が多くなりそうに思えます(これは僕自身が経験したことでもあります)。

 

「意味がある」に固執してうまくいかず、挫折したなら、「意味」から離れて取り組むものを考えてみた方が良い気がします。

 

 

「意味がない」ものがもたらすもの

ここまでは、「意味がある」について考えてきましたが、今度は一転して、「意味がない」ものについて考えてみます。

 

これは、多くの人が避けがちのものです。あるいは、そもそも気が付かないものも含まれます。

 

僕は、世間的に「意味がないもの」と判断されがちなものが結構好きな方ですし、「意味がある」ものに手を出しつつも、「意味がないもの」にも手を出しています。これがやり方として良いか悪いかは、もうあと10年後くらいにわかってくると思いたいです。

 

僕にとって「意味がある」ものは、資格でした。主には診断士の資格です。また、最近何も作っていませんが、プログラミングもそれに当たります。この辺は世間の流れに乗っかった、大変わかりやすい「意味がある」です。

 

「意味がない」ものは、ラジオとか、読書とか、イラストづくりとか、料理です。読書は役に立つと思われるかもしれませんが、好奇心を原動力に読んでいますから、役に立つ(年収を上げるなど)意味では読んでいません。

 

言語学や経済学(しかも原典)や農学の本を「意味がある」と思って読みたい人は、学者を志さない限り、そういないはずです。料理もそうで、むしろ家に帰ってからの時間を料理に当てるくらいなら「意味のあるものに」と思う人が多いでしょう。

 

この中途半端にいろいろやっている人間が今後どうなるのか。世の中の評価を得られる「意味のある」人間になるのか、そうでないかは、ご興味あれば、今後も定期的に訪れて、観察してみてくださると幸いです。

 

話を戻して、「意味のない」ことをあれこれやっている身として、それを案外捨てたものではないと感じるのには、理由があります。

 

 

「意味がない」ものに「意味がある」かもしれない理由

まず、「意味がない」は、「意味がある」からの逃げ道になります。これは僕自身が資格勉強の中で気がついたことです。

 

勉強し始めたとき、今では信じられないほど僕は覚えが悪かったですし、覚えることへの苦手意識で、何度も諦めそうになりました。そのときに逃げ場になっていたのがなぜか好きになった経済学でした。それ以降、経済学を読み、歴史に興味を持ち、さらに経済学に興味を持ち・・と、今に至ります。

 

「意味がある」活動を続ける傍ら、「意味がない」活動があると、「意味がある⇔意味がない」のリフレッシュによって、案外「意味がある」を離陸させるまで続けられるのです。一度離陸すれば、多少躓いても「意味のある」ものを続けられますので、それまで熱を保たせてくれる「意味がない」もの、当時の経済学の安心感には感謝しています。

 

おそらく、「こうなりたい」という理想を保つために「意味のある」ものだけをやりすぎると、先述のとおり、うまくいかないときに、理想との距離が離れすぎて、自分が保てないのだと思います。だから、自我を保つための他の手段として、「無意味だけど自分らしいもの」をおやつのように取って甘やかすのが健康的なのだと感じます。

 

「意味がない」活動を育てることのもう一つの効能が、考える力を鍛えてくれることです。

 

これも資格勉強をしていた中で気がついたことですが、意味があることについて考えすぎると、考えられる場面が「意味があること」と自分が認識している活動の時間に限られてしまいがちです。先述の通り、そもそも「意味がある」からと言って、一日に何時間もそれを続けられる人は稀です。

 

ですから、時間を捻出して「意味のあること」を2〜3時間やって、あとの時間はぼーっと過ごしてしまいがちです。しかし、ここで「意味がないこと」についても考えられると、考えることに使う時間はかなり伸びることになるし、結果、考えるクセがつきます。これを続けることによって、推論の技術が上達し、自分のアンテナがぐっと広がったように思います。

 

考える力が伸びると、知識が入ってくる感度も変わります。例えば、イオンのような総合スーパーの棚に置かれている商品のフェイス(要するに面積)は、基本的にメーカーの業界シェアと相関がありますし、それは観察の結果でもわかっています。これをもとに、スーパーで観察をすると、最近ポテトチップスではその状況が変わってきていまして、湖池屋のフェイスがカルビーを押しのけてきています。

 

この結果、僕はここ数年で湖池屋の業績が好調なのでは?と疑問を持つことができ、しかもこの仮説が事実でもあることにも気がつけました。いわんや、僕以上に普段から物事を考えているクセがついている人は、これ以上の示唆を一つの情報から得られるはずです。

 

これは、「意味がある」ことにしかスイッチをオンにできない体では得られなかった情報です。そして、この「気がつけるアンテナ」は、使っていて楽しくもありつつ、こうなると、いつか、案外ムダにはならないものになるのでは?などとも思っています。

 

一見「意味がない」ことに手を出すのも、そこそこアリなのではな気がします。

 

この記事についての反応を予想するに

「意味がある」ことを追求する人は、もしかしたら、この記事に出会わないかも。また、読んでくれても、ここまで読んでいないかもしれません。

 

自分にとって何が「意味がある」のか悩んでいる人の悩みをこの記事は解決できていないと思います。僕自身が、「意味がない」ことを、「意味がある」ことに転嫁できているようなわかりやすい成果をみなさんに提示できていないから、「意味がない」ことに時間を投下することに、堂々と胸を張ってもらえないだろうと思います。

 

「意味がない」ことに手を出して楽しく生きている人には、共感してもらえる話かもしれません。願わくば、その人達の中に、「意味がない」ことを続けた結果、「意味がある」ことを生み出せた人がいて、この記事を大いに支持してくれれば、皆、「意味」に固執しなくなると思うのですがね。

 

人任せにしていてもどうかと思いますし、僕は僕で意味を追いかけ無意味を追いかけ、がんばります。

 

こんな人間が数年後どうなったか気になれば、覚えていればですが、また数年後でもいいので覗いてみてください。

 

もしかしたら、『若い頃に「意味がない」ことをやっていたら、結果的に意味がありました!』との報告をしているかもしれないので。

 

やてん

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