「合理」と「非合理」について。短所が長所に変わるタイミングとは?

合理的なものは、良いものである。非合理なものは、悪いものである。または、短所は悪く、長所は良い。一般的に、そんなことが言われます。

 

しかし、世の中をみていると、物事はそう単純ではないと僕は感じます。

 

合理的なことがすべてにおいて素晴らしいならば、みんなが同じ、「合理的な」結論に行き着くはずです。

 

飲食店は、フランチャイズで個人事業主(オーナー)に任せる方が「合理的」で、それが「正解」だと。

 

しかし、多くの方が好んで訪れるスタバは、直営方式(一般的に高コストで避けられがち)で経営しています。

 

経営においては、このような非合理をあえて作る方法で、最終的に業界で勝ち残り続けることが重要視されています。

 

僕は、経営における非合理な選択の仕方は、個人の行いについても適用させられると感じるのです。今回は、合理・非合理について考えてみます。

 

「非合理で合理的」な経営

直営店運営であっても業界で勝ち残り続けているスタバは、結果的に「すごい」と称賛されます。

 

一方、仮にカフェチェーンを出店することになった際、ほとんどの会社はスタバとは反対のフランチャイズ方式を選ぶはずです。

 

なぜなら、その方が低コストで出店でき、拡大も容易だからです。オーナーを雇い、彼らに店の運営を任せる。アルバイト・パートの採用から、光熱費、地代まで。

 

そうすれば、フランチャイザー(本部)は、各店舗からブランド使用料が自動的に入ってくる収益構造を維持できます。これはフランチャイザーとしては極めて合理的です。ゆえに誰しも、これを選びたくなります。

 

しかし、スタバが直営店方式でありながら業界で圧倒的な人気を誇っていることは以前の記事でご紹介した通りです。

 

他の例を挙げるなら、ZARAを運営するINDITEXが社員を多く雇ったり、欧州に工場を構えていることは、人件費の安い国に工場を置くユニクロやH&Mと異なり、一見非合理な行いです。しかし、結果的にはZARAも、競合と比べて最高の売上高、かつ利益率を上げていると、以前の記事で書きました。

 

経営の観点で見ると、「非合理」をうまく使うことが、最終的には合理的に勝つ方法なのかもしれない、と考えさせられます。これは、短所を生かして勝つ、とも言いかえられると感じます。

 

「定着」と「teichaku」

上で紹介したのは、あくまで企業経営に関する考え方です。

 

次に、「非合理の選択」が、なぜ僕らにも応用できるのかについて考えてみます。

 

最近、Audible(アマゾンの本の朗読サービス)が月額1500円で読み放題になったので、「買うほどでもなかったんだけど気になる本」を料理中などにラジオ感覚で流しまくっているのですが、その中で、「タイピングよりも書くほうが定着が捗る」と聴きました。

 

多量の情報を整理するならば、文字で書くよりもタイピングの方が効率よく、一見合理的に感じられます。

 

しかし、その本(アウトプット大全)では、記憶をするなら「運動性記憶」が良いと書かれています。つまり、運動神経や筋肉を使う記憶は、脳だけで覚えようとするより記憶の定着が捗るのだそうです。

 

「タイピングでも筋肉を使っているのではないか?」との疑問がすぐに思い浮かびそうですが、これについては僕がお答えできます。

 

僕らが脳内で、ある言葉とその意味を記憶する場合、文字の映像と、その意味がつながった状態で記憶されています。

 

そして、文字を書くことは、その映像の記憶を、筋肉を使って再現することに当たります。

 

一方、タイピングで言葉を入力する場合、「定着」を一度「teichaku」にして筋肉を動かして入力し、画面に「定着」と表示させることになるため、運動性とはいえ、記憶が残りにくくなると考えられます。

 

つまり、一見非合理な手書きによって、タイピングよりも、ものごとの記憶・定着を早くする事ができるのです。

 

これは、一見非合理な行いが実は合理的だった、という好例な気がします。

 

合格点を狙うのか、満点を狙うのか

よく資格試験の学習に関して、こんな事が書かれています。

 

「資格を取ることが重要なのだから、合格点を狙える程度の実力をつけておけば良い」と。

 

これは、非常に合理的な考え方ですが、これは僕の感覚上、誤りです。合格点を狙える程度の知識の定着では、その資格勉強の知識を実践で扱う事ができないからです。

 

資格を取るくらいだから専門職なのでしょうが、それで仕事をやっていくなら、出題頻度が低いものすら覚える余裕がある程度にまで徹底的な定着を図るべきです。

 

出題頻度の低いものを覚えるのは、試験対策上非合理ですが、これをやるくらいにまで知識を叩き込めば、基礎は暗唱できるくらいになっているはずですから、それはその後にも生きるはずです。

 

一方、合格点で受かる程度の勉強をしても、定着が甘いせいで、その都度再度勉強が必要になります。結果的には、合格点ではなく、満点を狙いに行く意思が重要なのです。

 

これも、一見非合理な選択が、実は合理的である事を物語ってくれます。



ヤクルトレディの手書きのお手紙

ヤクルトの配達をしてくれるヤクルトレディの方は、担当が変わったりする際に、手書きの手紙を配達ボックスに入れておいてくれます。

 

これを配達ボックスに入れる分用意するくらいなら、文書にして、それを印刷する方が楽で、効率的です。

 

しかし、ボールペンで書かれたその手紙を受け取る方は、その人に「丁寧な人だな」という感情を抱いてしまいます。

 

結果、ヤクルトレディの人に対して、会ったこともないのに好印象を抱いてしまいます。

 

これが印刷された文書だったら、そもそも読まない可能性すらあります。僕らはそれくらい、印刷物に対してシビアになっているのです。

 

それを思うと、一見非合理な「手書き」は、利用者に読んでもらう・好印象を抱いてもらう目的に照らせば、結果的には合理的な手段と言えそうです。

 

ポイントは意識的に非合理を選択すること

それぞれの「一見非合理」を比較すると、共通点があります。それは、あえて一見非合理な手段を取っていることです(勉強については、どちらもありそうですが)。

 

僕が観察していて思うに、合理的な部分と非合理的な部分をうまく組み合わせることが、最終的な目的をうまく達成する上で重要なのだと感じます。

 

また、何を最終的な目的に据えるかによっても、それは変化します。資格をとってそれで終わりならば、合格点狙いでも良いはずです。一方で、実務で使うことを目的とするならば、合格点を目指す発想はかえって悪手と言えそうです。

 

よって、目的に沿って非合理をうまく絡めることが、物事を達成する上で重要ということです。

 

孫氏の兵法「正法と奇法」から考える

実のことを言うと、絡め手を混ぜる事の重要性は今から約3000年前、孫氏が軍師を務める時代から言われていたことです。

 

孫氏は、正法(地形や天候、数の比較から自然に導き出される戦術)と、奇法(正法ではない、理屈が通らない戦術)を絡めることで、相手を混乱に陥れて陣形を崩し、そのスキをついて、勢で勝つ、と書いています。

 

現代は、意識的に情報を遮断しなければ、様々な情報が勝手に自分の五感に侵入してくる時代です。一方、それゆえに、「何が一番合理的か」「効率の良い方法」「失敗しない方法」を探しがちな時代ですし、その方法に則って物事を進めようとしがちです。

 

しかし、孫氏の兵法が今に語り継がれ、それを継承しているかのような企業が国籍を問わず業界の首位に君臨する事実に鑑みると、非合理な事にあえて手を伸ばすことは重要なのではないかと感じるのです。

 



それは、何であって、何でないのか

こう書いていても、僕自身、まだ合理と非合理を見分けることや、どちらを選択するかは意外と難しいと感じる日々です。

 

やってみて結果的にわかることも多いですから、事前にわかろうとするのは結構難易度が高いのかな、と感じます。

 

ただ、個人的にはまりがいいと感じているやり方があります。それは、対立概念をムリヤリ作り出す考え方です。

 

さっきのヤクルトレディさんのお手紙の話で言うなら、以下のようになります。

 

「手書きのお手紙」であって、「無味乾燥なワードの文書」ではない

 

このように、あえて「じゃない方」を作り出す。これを自分の手法や考え方についても転用し、何であって,何でないのか?を考えてみるのです。

 

対立概念のどちらかが、皆が選ぶ合理的な方法であり、非合理な方法を自分があえて取れ、それが論理的に間違いでないならば、あえて非合理な手法を選ぶことには隠れた価値が眠っているのではないかと僕は感じます。

 

あるいは、自分が普段短所だと感じている部分は、何に対しての短所なのか。また、その短所を何かと組み合わせて生かせる方法がないか。それを考えるのは結構面白いのではないかと感じます。

 

まとめ:関係性で見てみる

最後に、もう一つのポイントについて僕が感じる事を書いて、おわりにします。

 

はじめのスタバの例に戻ると、直営店にすると、店長やその他スタッフの教育に対する義務は会社側にありますから、人材育成の面で負担が大きいです。しかし、それを乗り越えて人材育成をし、スタバの雰囲気の良い社風を築き上げているのだと考えられます。

 

仮にスタバの店舗をフランチャイジーの個人事業主(オーナー)に任せれば、オーナーは収益を向上させるべく、顧客の回転率を上げようとオペレーションを組むでしょう。そうなると、現在のように複数人でレジを回すこともしないでしょうし、多い工程を経て飲料を提供する丁寧な提供もなくなるかもしれないし、そうすればスタッフは多忙で疲弊してしまうかもしれません。

 

あの雰囲気を作る目的を叶える上で、直営で店舗運営を行うのは、一見非合理ではあれど、実は非常に理にかなっているのです。

 

スタバでは、ほとんどの商品が高単価です。そして、原価も安いです。つまり、利益率が高いです。

 

仮にその高い単価が、客の回転率が高く、長居しないカフェでも採られたらどうでしょう。客のインスタントな目的に高単価がマッチせず、そのお店には次第に訪れなくなるはずです。

 

ですから、ゆったりした雰囲気作りに命を懸けているスタバにとっては、店長はじめスタッフが客の回転率を意識しすぎなくてもよく(必ずしもそうではないと思いますが)、スタッフに丁寧な接客を促せる直営方式が合っているのです。

 

単に直営が良いのではないのです。高単価でなければ直営は成り立ちません。逆に、高単価でも求められる場になるために、直営やスタッフの人数を揃えて丁寧に接客するとも考えられます。これらの打ち手の関係性の中で、何を合理的に、非合理的にすればよいのかを考えるのが重要だと感じます。

 

これを僕ら個人の行いのレベルに当てはめると、自分のいくつかの行いのうち、何が合理的でも良く、何を非合理にすることが、目的達成のために重要なのか。

 

自分の日々の行いに、「何であって、何でないのか」を問いかけ、それぞれを「関係性で考え」れば、もしかしたら思わぬ我流を思いつくかも知れません。

 

これは、一見短所に見えることが長所としても扱える事を意味しています。「合理・非合理」について考えることには、果てしない可能性があるのではないではないか、と感じる今日このごろです。

 

制作:ことばでブリコラージュ

提供:あたまのなかのユニバース

 

 




やてん

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