「やりたいこと」の見つけ方についての仮説

「やりたいこと」「すきなこと」「向いていること」・・昨今、様々な言葉で、「あなたの正解はここにありますよ」と、具体的なものから抽象的な方向性についてアドバイスをする存在が増えているように思います。

 

読者方がはじめに思いつくのは職種でしょうか。ファッションに関心がある方は、ファッションにも取り入れられていると感じるかもしれません(パーソナルカラー、骨格、顔タイプ診断など)。

 

また、BtoBの現場においても、コンサルティング(提案型)営業なる用語がわざわざ言語化されるあたり、「あなたに適しているモノはこれです」という、最適解の提示が、世の中の要請としてあるように感じます。

 

だからか、個人に対しても、やりたいことは〜、好きなことは〜やりがいを感じるところは〜と、僕らに教えてくれようとするサービスが目の前にやってきます。

 

今回僕は、自らが仮説として持つ、「やりたいことの見つけ方」について書きます。

 

これは、いくらかの質問から診断する方法でも、特徴ごとにグループ分けをした早見表でもありません。性格に関しては、このようなものも理解の助けになると考えますが、「やりたいこと」に関しては、上述の方法では探せないと感じます。

 

性格がこのタイプなのはわかったし、こういう性格の人間に向いている職種とかリストに書かれているけど、自分がそれをやりたいかと言われると・・まぁでも向いているのは確かなのか・・?

このように、なんとも釈然としないまま終わってしまうことが多いのではないでしょうか。

 

「やりたいこと」と「性格」は、関係はあっても、「性格診断」から「やりたいこと」を導くのは難しいと考えます。なぜなら、「やりたいこと」は「すでに存在するもの」ではなく、「自分が今後成し遂げるべきと考えるもの」であると、考えるからです。

 

「やりたいこと」とは、「いまだこの世に存在しないもの」なのだと思うのです。多くの人に「やりたいこと」が見つからないのは、このためではないでしょうか。

 

「やりたいこと」は人生において必要なのか

まず、この問いについて考えましょう。僕は、人生において「やりたいこと」を見つけ、それをやって生きることが幸せに繋がると断言はしません。「やりたい」とか「好き」とか、そういう自我を引っこ抜いて、平静を保って生きることができるのなら、僕はそれが一番良いのではないかとすら感じます。

 

たまに「無趣味です」と言う方がいらっしゃいますが、僕は「無趣味」の状態は、人間にとって最高の状態だと考えています。その状態に到達できれば、どんなに日々の幸福を噛み締められるだろうと、常に感じています(これについては、また書きたいです)。

 

ですから、「やりたいこと」とか「好きなこと」がなければ人生に張り合いがない・持てないというのは、そう思わせることで人を動かしたい(お金を稼ぎたい)人々の言い分だと考えるようにしています。

 

それでも、長い(であろう)人生、「やりたいこと」でもなければ、日々を楽しめない、という方のほうが多いようにも思いますので、もしご興味あれば、下に続く、「やりたいこと」の見つけ方について、読んでいってください。

 

「やりたいこと」と「できること」

ケーキを作るのが好きな人、ケーキを「つくりたい」人が、ケーキを作ることを職にしました。これは、「やりたいこと」ができている状態でしょうか。これを聞いてほとんどの人は、理屈では「yes」でも、納得はできないはずです。

 

なぜなら、ケーキづくりが好きな人の中に、ケーキを作るという「反復的な動作が好き」な人が世の中にほとんどいない事を、経験的に感じているはずだからです。

 

これは、どちらかというと「身についている」ものであって、「できること」です。きっと「やりたいこと」という言葉からイメージする状態とは違うはずです。

 

それに、チーズケーキを作るのが好きな人にとって、自分が好きではないが人気のショートケーキを作らなければならないとなれば、それは「やりたいこと」ができていない状態にもなりえます。

 

「やりたいこと」は、その言葉が含むイメージの範囲が人によってバラバラであるがゆえに、人との比較や内省を複雑なものにし、僕らをなお悩ませます。

 

そこでこの記事では、まず「やりたいこと」を定義します。

 

「やりたいこと」は、「自分にとって未開のもの」の中にある

まず、「やりたいこと」とは、自らがまだ知らず、かつ今から知りたいと思っていることの中にあると考えます。

 

先の「ケーキづくりが好きな人」の例でいうと、チーズケーキづくりにおいて、原材料の比率をこのように変えてみたらどうなるだろう?という、自らが立てた問に対して答えを得る試行を、この方の「やりたいこと」であると、考えます。

 

単に「作ること」ではなく、気になって、まさに「やってみたくなってしまうこと」が、「やりたいこと」である、と考えるのです。

 

しかし、それでも、ここまで読んでくださった方は納得しないかと思います。「やりたいこと」という言葉には、希少で、輝いたものをイメージしているはずで、そんな日常の延長線にあるものではない、といったところでしょうか。

 

そこで、もう少し、「やりたいこと」の定義を狭めてみましょう。

 

「やりたいこと」は「未開のもの」の中にある

上の命題から、「自分にとって」を消しました。つまり、「世の中の誰も試していないから、私が試して、世の中に追加したいもの」を、「やりたいこと」と、定義してみます。

 

こう定義すると、「やりたいこと」がなかなか見つからないのもわかります。自分が試したいことが世の中にまだ存在しないことを知るには、世の中でこれまで試され、積み上げられてきたものについて、理解していなければならないからです。

 

つまり、ある領域についての歴史を知らなければならないのです。そして、その向こう側について、「試したいこと」がまだあるのなら、それはきっと、僕らにとっての「やりたいこと」なのではないでしょうか。

 

別の方向からも見てみましょう。想像してみてください。僕らが思う「やりたいことをやって生きている、ように見える人」は、きっと、未開の世界に飛び込み、世の中に新たな地平を切り開いている人ではありませんか?

 

もちろん一意見ですが、この定義は、僕らが「やりたいこと」という言葉からイメージするものと近似しているように、僕には感じられます。

 

「やりたいこと」は、少なくとも、僕らの辞書の定義では、「すでにわかっていること」「誰もがやっていること」「当たり前のこと」の中には、おそらく今のところ、存在しないのでしょう。

 

「やりたいこと」の見つけ方は?

ここまで書いてきたことを鵜呑みにしてくだされば、「やりたいこと」の見つけ方は、もうわかってきているはずです。

 

つまり、「自分が試したいこと」を確かめながら潰してゆき、誰も試していないであろう「未開」に到達したとき、「なお切り開きたいもの」をみつければ良いのです。それが他ならぬ「自分が」「やりたいこと」でしょう。

 

今、自分の目で捉えられているもののうち、気になるものに、お金と時間を投下し、思索・試行を繰り返してゆく。

 

きっと、気になるものをいくつか抱えていると、こぼれ落ちてゆくものがあるはずです。

 

そうやって時間やお金の制約という篩にかけられてもなお残り続けるものが、きっと、僕らが「やりたいこと」であり、そのうち「人生の目標・目的」になってゆくのではないでしょうか。

 

あるとき急に誰かがお告げに来てくれることは、きっとありません。都合の良い異世界への転生もありません。歩みを進め、心身を動かす。その先に、きっと「やりたいこと」は見つかるのです。

 

これには、お金も時間もかかります。「貯金よりも経験に投資をしろ」と言っている人をたまに見かけますが、この記事の文脈で言い換えると、「気になることがあるなら、貯金はほどほどに、お金はそれに使いましょう」となるかもしれません。

 

「やりたいこと」は「先端」であるべきなのか。

こう書いていると、「やりたいこと」は、今も先端を走るトップランナーのさらに先を行かねばならないのかと思われるかもしれません。

 

それは窮屈ですよね。枠が決められているような気がしてきます。「やりたいこと」をやれる人には、限りがある。選ばれしものだけに許される特権のようにも見えます。

 

が、しかし、そんなことはないと僕は考えます。

 

ジェームズ・ヤングに始まり、数多の人が指摘するように、何かと何かの組み合わせにより、自分で新たな道を開拓すれば良いのです。

 

フルーツ入りのチーズケーキを作って(すでにあるのかは知りませんが)、その道で開拓を続ければ良いのではないでしょうか。

 

今までの人たちも、きっとそうやって世の中を捉えなおしてきたのです。その捉え直しの運動こそが、「やりたいこと」なのではないでしょうか。

 

 

まずは認識から改める

きっと、まず僕らに必要なのは、「認識・言語化できていないだけで、わかっていないこと」が世の中には無限にあり、「わかること」はそれに比べて極小の領域であるとの認識です。

 

そして次に、「わかっていること」と、「わかっていないこと」の境界を探ることです。

 

そして、自分の心身に従い、いくつかの自らの関心を収束させ、新しい道を切り開いてゆく、ユーモアです。

 

当然ながら、いろいろなものに手を出せば、続くものも、続かないものもあるはずです。それについて、お金や時間の無駄になった、失敗した、などと思わなくて良いのです。たとえ中途半端なところで終えてしまっても、どこかで必要となれば、きっとまたやりはじめます。

 

何かをやめてしまったとしても、それは、「他の何かを続ける、追求するため」なのです。その選択には、「やりたいこと」に通ずるヒントがきっと隠されています。

 

はじめから、自分の「やりたいこと」を見つけよう、あるいは、これを自分の「やりたいこと」に決めよう、さらには、これのスペシャリストになってやる、と決めてかかっても、きっと続かない人がほとんどでしょう。

 

それで良いのだと思います。歩みを止めずに道くさを経ていれば、いろいろなものを試しては手放すなかで、妙に手離れが悪いものに出会えるはずだからです。それが、きっと原石なのです。

 

今回の記事を読んで、腑に落ちた、という方がもしいれば、僕といっしょに、諦め悪く、お金と時間を割き、「やりたいこと」を見つけましょう!

 

おわりに

この記事は、僕一人の経験から書き綴ったものです。僕はこれを真理だと言うつもりは毛頭ありません。これを信用するも、しないも、読者の方次第です。ただ、「やりたいこと」という、ふわっとしているものについて、あまり世の中では論ぜられていない側面について表現できたようにも思います。もし、誰かにとって、何かのきっかけ、一助にでもなれば、幸いです。

 

本当は、もう少し書き足したい部分もあったのですが、それを書くと、数学アレルギーの方から嫌がられると考え、省きました。そのうちnoteにそれについては上げるかもしれませんので、気になった方は、そちらもよかったらご覧いただければと思います。

 

 

後記:「やりたいこと」には、こんな特徴もある?

今回、蛇足になりかねないと思って書かなかったいくつかの事を、ここに列挙しておこうと思います。

「やりたいこと」を、他人に任せたいとは思わない。

「やりたいこと」は、誰彼構わずに話したくはならない。

「やりたいこと」は、親や友人からからは理解されないくらいが丁度よい。

「やりたいこと」には、仕事/プライベートのようなon/offの境界がなく、常時動き続ける。

他にも気がついたら書き足そうと思います。

やてん

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