「理性」の本質と、感情的になりやすい人と付き合う方法

理性的で、理論的であることは、良いことである。感情的になっていたり、動揺していたりするとき、理性的に振る舞って落ち着いている人といると、その冷静さに救われることを、ある程度、誰もが経験しているかもしれません。

 

だからといって、感情的になっている状態に理性的な側面で対応することが必ずしも良い対応というわけではなく、むしろ自らも感情的な側面で対応したほうが良い場合もあるように、僕は思います。

 

今回は、感情の使い方について、自らが考えるその一つの手法について、考えてみることにします。

 

理性は何よりも優先されるべきか

まず、理性・理論について、これが何よりも優先されるべきかを考えます。僕は、相手が理性で話を聞く場合、理性で話すことが最も有効と考えます。

 

「理性で聞く」は、産まれた瞬間身についているものではなく、徐々に年齢を重ねる上で身につけるものなので、「理性で話す」は、そもそも「理性で聞く」ができる人向けの対応ということになります。

 

また、ある人が「理性で聞く」ことができたとしても、状況によっては「理性で聞く」ことができない場合もあるはずです。相手に精神的な余裕がない場合などです。

 

なので、お互いが「理性で話す・聞く」ことは、最も優先度が高い打ち手ではありますが、それは相手とタイミングによるので、使いどころを考えなければならないと、そう考えます。この詳細は、後ほど述べます。

 

そもそも「理性で聞く」ができない人とは、「理性で話す」ことを避けたほうが良いようにすら思います。理性で聞けない人は、自分の感情・感覚面の「絶対」があり、仮に周りが理性的に考えれば誤りだと考えていたとしても、自らの「絶対」を優先させようとするからです(周りからは相手をしてもらっている状態)。

 

ゆえに、「理性は理想」であり、相手とタイミングによって優先順位が揺れ動く、と考えられます。

 

理性が通用しない場合の戦い方

理性が通用しない場合の戦い方ですが、その場合、感情で対応することになります。

 

つまり、怒っているときは、それを理性で抑えようとするのではなく、しっかり表出するのです。

 

これは、一見「子供っぽい」とか、「本当の大人は感情的にならないものだ」などと反論を受けそうですが、相手が理性に応じれない場合、理性でコミュニケーションを取ることは不可能なので、ここは相手のコミュニケーション形式に合わせる必要があります。

 

「理性で聞く」ができない人は、支離滅裂で「よくわからない理性」を振りかざす傾向にあります(その裏には、自らの「絶対」を守りたい感情が隠されている)。

 

そのような人に、「理性」を用いる事自体、難しいのです。

 

裏を返すと、人の気持ちや感情の動きについては敏感なので、こちらがしっかり態度を示せば、それがむしろ簡単に伝わります。「人によって態度を変えない方が良い」?そんな固定的な考えでは、自らを無自覚に感情で傷つけてくる動物に、何度も傷つけられることになります。

 

 

繰り返しますが、これは「理性で聞けない人」に対して用いる場合であり、あくまで理想は「理性 対 理性」だと僕は考えています。

 

「理性 対 理性」でも・・・

「理性で話す・聞く」とは、自らの中にある「こういうときって人ってこういうふうになるじゃん」という、多くの人の中に共通して存在している「科学的な心」を基礎に人と相対することを言います。

 

「科学的な心」の形成には、できるだけ多様な人間関係のケースに遭遇する必要があります。

 

「科学的な心」は、多様なサンプルに相対し、関わることで、自らの中に(ほぼ無意識的に)法則化されてゆくものですが、このサンプルが偏っていたりすると、これが歪んで生成されることで、本来社会と関わる際に必要とされる「理性」が、成熟しないまま年齢を重ねることになってしまうこともあるのです。

 

ですから、自分の「理性」を誰に対しても要求するのは、そもそも不可能である、ということです。また、僕自身、誰かの「理性」に合わせてもらっている、未熟な人間であることも意味します。

 

「理性」にも、「広さ」があります。つまり、触れてきた人間関係の多様さによって、形成される「科学的な心」も広くなり、理解できることの幅も広がります。

 

だから、「理性=科学的な心」が「広い」人が、その範囲の広さで「狭い」人に向けて「理性で話す・聞く」をするのも難しいのです。

 

例えば、多国籍企業に勤務しているとき、日本以外の国の人達が、日本ではしないようなことをしているのを見かけて、「信じられない」と思ってしまうのは、自分の「科学的な心」の守備範囲を超えてしまっているからです。

 

しかし、それに慣れてくると、守備範囲は広がります。これによって、理性は再形成されてゆきます。ここでこれまでの自らの「理性」を信じ、相手を受け入れずにいると、それはかえって傲慢・独善と捉えられやすくなります。

 

別の例を挙げると、理性や理論で対処することが多い人(士業の人など)が、理性や理論で物事を語る際に「そんなうまくいかねぇよ」と僕らが思うのは、おそらく、彼らの「理性」が「理性的」すぎるからでしょう。

 

士業の人は、普段から似通った「理性 対 理性」でコミュニケーションを取っており、さらにいうと、理性の塊(法律・憲法・制度)を扱うことが多い故に、人を理性に当てはめやすいと(あくまで傾向として)考えられます。

 

一方で、その場の感情や気分・思いつきに流されてばかりで、理性で考えることをしない人と相対すると、それはそれで、周りは振り回され、迷惑を被ることになります。

 

これらから、「科学的な心」の「守備範囲」が相手とぴったり合うことは難しいので、合わせられる方が、その守備位置を相手に合わせて柔軟に変えて、人間関係を構築するほうが良いと考えられます。

 

理性で聞く人には理性で(可能なら)、感情で聞く人には感情で、人間関係を考えるのが有効であると考えます。

 

「人間の器」とは

こう思うと、人に対して先入観が少ない人は、もしかしたら「科学的な心」が広いのかもしれません。

 

「人間としての器が・・」と言ったりするときの「器」とは、対応できる理性のレベルのことなのかもしれません。理性で相手をしてくる人には、相手の理性に合わせて相手をする。一方、理性が通じづらい相手には、理性を引っ込めて、感情を用いて相手をする。

 

今や「大企業」と呼ばれるような大組織を作り上げた人々は、おそらくこの「科学的な心=器」が、とても広い方だったのではないかと想像します。

 

より多くの人を受け入れ、その人達を生かしたからこそ、今の大組織があるのではないでしょうか。

 

不思議なことに、規模を大きくしてゆく過程で、ある一定以上の規模から大きくなれない企業はたくさんあります。

 

もちろん市場規模(顧客数)も要因としてありますが、企業の場合、市場の開拓ができます。横浜市を拠点とする書店の有隣堂は、飲食店も、アパレルもやっています。

 

この例から、企業は規模を大きくしようと思えば、他業種・業界への進出によって、規模を大きくすることができるのです。大企業の多くも、多角的にで事業を行っています。

 

そのような規模拡大ができないのは、おそらく「器」の大きさに原因があるのかもしれないな、と感じずにはいられません。

 

「器」以上に規模だけを大きくしようとすると、その器で受け入れられない「理性」を持つ、いわゆる「合わない人」は、どんどん外に流れてゆきます。また、「器」以上のお金を持ったとしても、その使い方が分からず、無駄に外に流してしまい、失敗してしまうことも多いでしょう。

 

また、市場が大きくなるにつれて一時的に企業の規模が大きくなったとしても、競合が現れるにつれて、そのシェアは、器によって上下し、調整されるのではないでしょうか。

 

だから、「もし規模を大きくしたい」と思うのであれば、それを受け入れるだけの「器=科学的な心=理性」が必要で、それを鍛えるところから初めなければならないのかもしれません。

 

 

おわりに:人の話に戻すと・・

これは、企業などの組織に関わらずだと考えられます。テレビプロデューサーの佐久間さんが、キングコングの西野亮廣さんとの対談で、「知識がない人にとっては、科学と宗教は同じだ」というようなニュアンスのことを話していました。

 

新しい知識を自らの中に入れることを嫌がり、これまでの知識のみで物事を理解しようとする人は、次第に新しいものを、捉えどころのない「宗教」「無意味」と嫌悪するようになります。

 

新しい知識、あるいは知らない物事に対する対処が柔軟であれば、様々な話を受け入れることができますが、自らの見聞を広めない人は、世の中を、同じ視野と解像度で固定して理解し続けることになります(あえて視野と解像度を変えずに世界を理解しようとするならば、話は別です)。

 

もし、今の自らの状況を変えたい、と思うのならば、自分がやったこともないようなことをやり始めることや、会ったことがない人に出会うことが、自らの「理性」を広げるきっかけになるかもしれません。

やてん

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