「血のバレンタイン」を起こさないために、僕らに今、出来ること
発毛・育毛は、もはやできてしまう。血液のクリーニングでコレステロール値を下げる・・。ヒアルロン酸で肌を若く・・。人のコンプレックスを解消させる技術は、今日も、ずっと進化を続けています。
テロメア(寿命に関係するDNAの一部)を長くする事すらできるというのです。そう思うと、将来、その技術はどこまでいってしまうのだろう?とも思います。今の30代は、将来的に、50代くらいの姿になるかもしれません。
人はそうやって、どんどん健康に、長生きになってゆくし、どんどん自分を理想的な姿に変えてゆこうとします。
そんな事を考える度にちらつくのが、「ホモ・デウス」の存在です。僕ら人は「ホモ・サピエンス」と呼ばれる種ですが、「ホモ・デウス」は人類(ホモ)における、神(デウス)のような存在です。
「ホモ・デウス」は、「サピエンス全史」の著者であるユヴァル・ノア・ハラリ氏が、その続編として著した本です。「サピエンス全史」が、僕らサピエンスの歴史を紐解くものであるとするなら、「ホモ・デウス」は、未来の僕らについて書かれたものです。
要約すると、テクノロジーが格差を広げてしまった結果、すべてを支配するデウスと、支配される(とすら気が付かないかもしれない)サピエンスの二極化した世界が待っているかもしれないから、技術の扱いには気をつけましょう、とのことです。
この本のポイントは、主張を支持する論拠として取り上げられている科学や技術が、どれも現存するものの延長線上にある点です。SFとは言い難く、現実寄りの主張のように感じます。
内容自体は悲観的なシナリオを描いていますが、ユヴァル氏は、あえてそれを描くことで、避けるために必要なものは何かを世界に問いかけてくれています。生き残るために、まずは地獄に至る道を知る、ということですね。
この記事を書こうと思ったのは、前澤社長が、宇宙でラジオを放送したというニュースを見かけたからです。民間で宇宙に行くというと思い出されるのは、中学生の頃、友人の家で見ていた、「機動戦士ガンダムSEED」です。当時見ていたSEEDのエピソードが、「ホモ・デウス」を想起させるものであり、前澤さんの宇宙旅行にはSEEDの始まりに通ずるものを感じるのです。
今回は、ホモ・デウスとSEEDを元に、僕らが今後、さらに進化を遂げてゆく技術とつきあうために、どのように気をつけてゆくべきなのかについて考えてゆきます。
機動戦士ガンダムSEEDのあらすじ
まず、SEEDのあらすじを共有しておきましょう。この物語では、人は既に宇宙で暮らしています。そして、遺伝子を操作されて生まれた「コーディネーター」と、ごく自然に生まれた「ナチュラル」の戦争に、その中立国で住んでいた主人公が巻き込まれてゆく、というものです。
主人公の目線で戦争への葛藤や人の欲望について考えさせられる、僕の好きなアニメの一つです。ガンダム好きには賛否両論のシリーズのようですが。また、単にロボットアニメだと避けられてしまうのも、惜しいと感じています。
このストーリーは、もし、「ホモ・デウス」に書かれていた事が現実に起こったとしたら?という一つの具体的なエピソードのようなものだと言えます。
この戦争の始まりは、持たざるもの(ナチュラル)が持つもの(コーディネーター)を妬み、核攻撃を仕掛けて宇宙にある農業地区を破壊し、大勢の人を葬った事件(血のバレンタイン)にあります。
血のバレンタイン以後、緊張が両陣営に走る中、ナチュラル側が中立国において新型の機動兵器の試作機(この名称がガンダム)を秘密裏に製造しているとの情報がコーディネーター側に入りました。コーディネーターはその奪取を試みます。それが思惑通りにはいかず、結局、その中立区を戦場に変えてしまい、これが長期の戦争に至るきっかけになってしまうのです。物語は、この機動兵器奪取からはじまる戦争を描きます。
作中、ひとつひとつの争いにフォーカスしつつ、源泉となる人の欲深さについても徐々に明かされてゆきますが、では、その欲望、または格差を生んだ遺伝子操作は、どのような経緯で始まったのか。それは、ある登場人物が、宇宙に発ったそのシャトルの中で、自分が自然に生まれてきた人間ではなく、人工的に操作されて生まれた人間である事を明かし、その技術を世界中に広めたことにあります。
前澤さんがそんな事放送で言っていたらどうしよう、なんて妄想から、この記事は生まれました。
その人物が宇宙に発つまでに残した業績は、スポーツにおけるものから研究分野におけるものまで様々で、当然、それを知っている人々は、我が子にその遺伝子操作を受けさせました。その結果生まれ、集団を形成したのが、コーディネーターです。
コーディネーター(≒ホモ・デウス)の思考回路
お察しの通り、コーディネーターは、ホモ・デウスに近いです。作中で触れられますが、肉体的にも、頭脳的にも、コーディネーターの能力は並外れています。肉体的にいうなら、焼け死んでしまうはずの熱にさらされた空間で生き延びることができ、頭脳的にいうなら、戦闘中に、戦闘機のシステムを、自分が扱いやすいように書き換えてしまう、などです。
コーディネーターにも様々な考え方の人がいますが、戦争の引き金を握っている人々は、上述の血のバレンタインを引き合いに、ナチュラルを一掃しようとします。ホモ・デウスにおいては、サピエンスをシステムを使って自身の管理下に置くような内容で、SEEDとは少々異なりますが、SEEDの続編であるDESTINYでは、すべての人類を遺伝子情報をもとに統括し、支配しようとする支配層の存在も現れます。
コーディネーターのような立場からは、このような「支配」を思考する人々が現れるという点において、ホモ・デウスで語られる人の未来と同じです。
ナチュラル(≒残ったサピエンス)の思考回路
ナチュラルとコーディネーターを分けたのは、おそらく理念的なもの(子供は、自然に生まれるものであるという思想)のようです。作られた人に対する嫌悪感とも言い換えられます。おそらく、経済的な理由もあるとは思いますが。
自分の周りの人が、並外れてよくできてしまえば、自分の尊厳が踏み躙られたような気がして、その人に嫉妬を向けたりもするでしょう。SEED作中でも、そんなシーンが多々あります。
ナチュラルの一部、特に軍の強硬派はその妬みを、「遺伝子を操作するなど、自然に反する!」という理念に置き換えて、コーディネーターを皆殺しにしようとします。詳しくは描かれてはいませんが、賢すぎるコーディネーターを忌避するようないじめも起こっていたようです。
また、ナチュラル側には「ブルーコスモス」と呼ばれる宗教団体も存在し、彼らはコーディネーターを惨殺しようとします。それこそ、作中で残酷な兵器を使って悲劇を起こすのは、決まってブルーコスモスです。
コーディネーターから「支配」を感じる一方、ナチュラルからは「嫉妬」と「恐怖」が読み取れます。
争いは、動き出したら止まってくれない
とはいえ、過激な思想を掲げている人々ばかりではなく、中立な人々もおり、主人公一派は、中立の立場にいます。主人公のキラ・ヤマトはコーディネーターでありながら、ナチュラルの友人たちと親しくしており、友人たちも、キラがコーディネーターであることを知りながら、それでも親しみをもって接しています。
一方、コーディネーターの友人であるアスランが、コーディネーター側の軍(ザフト)の兵士になっている事が、キラを作中、ずっと悩ませることになります。
戦いたくないのに、お互い、立場によって何度も戦ってしまいます。これが苦しく、観ながら何度も、「戦わずには済まないのか?済まなかったのか?」と考えましたが、息つく暇なく争いは繰り返され、争う意義を考える前に、「殺されないためには戦うしかない」、という理由が立ちはだかってくるのです。
命の取り合いは、始まってしまうと引けなくなってしまうのだな、とキラの目を通して実感しました。そして、だからこそ、僕らは進化をする「前」に、これを乗り越えなければならないのだと感じました。
鍵1:社会学
ここで、話を巻き戻しましょう。そもそも、何がいけなかったのでしょうか。ナチュラルが、核攻撃をしてしまったこと?いや、それより前です。真の原因は、お互いが同じ空間で、同じ尺度でお互いを測ってしまったことだと感じます。
そもそも、人は似た者同士で寄り合い、その似た者同士の中で軸を立てて自分の立ち位置を探します。しかし、コーディネーターとナチュラルは、見た目は同じでも、中身が全く違っているのですから、同じ尺度でお互いを測るのは良くないのだと考えられます。
アイビーリーグ卒の人間と数学力を比べられたら、僕も参ります。大谷翔平選手との運動神経を比べられる事も、同様です。コーディネーターと比べられるということは、これ以上の差を感じさせられる事になるのですから、勘弁してほしいですね。同じ定規で測らないでほしいです。
ここで、お互いができることの違いを理解し、互いに適切な距離感を取ることが重要になるのだと思うのですが、SEEDでは、両者が同じ空間に身をおいてしまったがゆえに、(相対的に)力なきナチュラルの心の中に、コーディネーターの力による屈服が想起され、持たざるナチュラルは、それに恐怖・嫉妬し、敵意を向けるようになります。
一方、そんな敵意を向けられたコーディネーター側の人間も、ナチュラルに向けて「低能なのに」「大した考えに至らない」などの嫌悪感・敵意を持つようになってゆきます。
また、遺伝子研究や、コーディネーターが生まれてくる過程も順風満帆とは言い難く、その結果、ラウのような影の存在を生み出すことになってしまいました。ラウの発言には、SEEDの世界観を理解するうえで非常に重要な役割があります。
誰か一人でもコーディネーターになるためには、その前に、僕らの内の多くが、人間・あるいはそれが構成する社会の成り立ちや、それに基づいた互いの付き合い方を考える必要があるのです。
自分の周りだけを社会だと思わず、それ以外にもさまざまな社会があり、それぞれのあり方がある。それを知ることは、まさに社会学そのものです。全く新しい技術に対応するために必要なものは、実は、全く新しい何かではないのです。
鍵2:構造上、デウスの幸福≒サピエンスの幸福
これまでは、コーディネーターとナチュラルでは生物的な強さが違うのだから、お互いに距離をとったほうが良い、との考えを述べていますが、実は、お互い共感できる部分もあるはずなのです。ここからは、歩み寄りについて考えてみようと思います。
そもそもコーディネーターは、人間によって生み出されます。だから、幸せに感じる部分については、実はナチュラルともそう変わらないはずです。悲しみを感じる部分についてもそうです。お買い物は楽しいし、仲間が死んでしまったら悲しい。
もちろん、楽しみを感じる深さがナチュラルとコーディネーターで違う可能性はあります。同じ本を読んだはずだけど、コーディネーターの理解力は半端なくてついていけなかった・・などです。でも、これはナチュラル(今の僕ら)の中ですら同じことです。それよりも、「この人はこういうところを楽しむんだ」という、人への理解に役立てたほうが良いです。
コーディネーターのキラがナチュラルの友人と親しくでき、コーディネーターのアスランとナチュラルのカガリが想い合う関係になるのと同じように、何かしら、お互いに気が合う共通のものはあるし、共存もできなくはないのです。
お互いが歩み寄り、お互いが「良い」と思えるものを、お互いが大切にできるのなら、そこにはナチュラルとコーディネーターの違いは入り込みません。この歩み寄りも、別に今だって重要な考え方です。上の鍵1:社会学と、この共感能力を育める人がどれくらいいるのかが、今後の悲しい未来を回避できるかに関わってくると考えられます。
技術が僕らを周回遅れにする前に
今後、誰かが宇宙を開拓し、僕らの子孫はいずれ、宇宙に住むことになるかもしれません。そして、その子孫の誰かは、自身の子をコーディネーターにし、その子は家系を縛る遺伝子の軛から開放され、莫大な力を手にするかもしれません。
しかし、力があっても、その扱い方を違えてしまっては、おそらくSEEDが描いた、あるいは、「ホモ・デウス」が描いた世界になってしまうように感じます。
だからその前に、僕らはまず、それぞれの「違い」に対する反応の仕方を更新させなければならないのです。今、誰かの能力に嫉妬をしてしまい、隣の芝ばかり青く見えているのでは、あるいは、人の短所ばかりに目が向いてしまうのであれば、その思いは、いつかコーディネーターを、あるいはナチュラルを殺してしまうかもしれません。
SEEDの中で、キャラクターの一人であるラクス・クラインが、「思いだけでも、力だけでもダメなのです」とキラに伝えるシーンがありますが、このセリフがこの作品の中で最も僕の心に残った言葉です。
まさに。技術だけでは幸せになることができないのです。思いや、それに対処する考え方を身に着けなければ。
力を持つ前に、力が追い抜く前に、思いを育てなければならないのだと、前澤さんの宇宙旅行から、いつかの僕らについて考えた1週間でした。
参考図書
「ホモ・デウス」は、超絶面白かった「サピエンス全史」の続編です。科学技術が進んだ先の、僕ら人の未来について書かれています。広大な視野を持つ著者の考えに触れることで、自分の視野も広くなったのではないかと感じさせられる名著です。「サピエンス全史」ともども、おすすめです。
機動戦士ガンダムSEEDは、現在、Netflixで無料配信中です。興味あれば、見てみてください。
制作:メディアに学ぶ
提供:あたまのなかのユニバース