言語化の負の側面と、脱・言語化

今回の記事は、とあるところに提出した論考の一つを、編集したものです。もし、ここに書かれていることと同じ内容を見たことがあると思った方がいらっしゃったら、その提出者は僕のことです。

 

昨今、「言語化」や「語彙力」などと言われていますが、僕はこの流行が進むと、僕らをより窮屈なものにしてしまう可能性があるとも感じています。今回の内容は、「言語化」の負の側面を一つ明らかにし、それを避ける方法について書きました。

 

言語化の負の側面とは

言語には、様々な力があります。ある物体や状況に、名前をつけて、意味を固定化させること。また、意思表示などの情報伝達にも使われます。他の動物に比べ、複雑な情報伝達を可能にしたことが、ホモ・サピエンスが食物連鎖において頂点に立った要因の一つであると考えられます。道具を作り、それを駆使し、他の野生動物を連携によって捕らえることもできたためです。

しかし、この言葉の負の側面のせいで、人々は近年、かえって混乱するようになっていると僕は感じます。

 

「言語化する」とは、ある事柄や概念などを、その他と峻別し、同定することであると言えます。「オオカミ」と僕達が呼んでいるあの動物を「オオカミ」と定義づけ、「イヌ」と分けなければ、僕らは、「オオカミ」のことも、「イヌ」と一緒くたに呼んでいる可能性があります。

 

また、「イヌ」と「オオカミ」の違いが共有されていなかった場合、友好的なイヌだと思って近づいたオオカミに、ひどい目に遭わされるかもしれません。

 

僕が取り上げたい問題は、この、「言語化=言葉による定義づけ」に関してです。これにより、2つの弊害が生じていると、僕は考えています。

 

まず1つ目が、「過度な不安」です。常に新しい言葉が立ち現れてくるように錯覚することで、時代の動きが早くなっているように感じられ、急き立てられるような感覚に陥ることがあります。しかし、これは実は殆どの場合、実態とは異なっているように感じられます。

 

例えば、経営理論においては、新たな戦略論が出現しては消えてゆきます。20年前に生まれ、今だ言葉が使われている、「ブルーオーシャン戦略(あるいは、その対義語のレッドオーシャン)」は、それよりさらに20年前に刊行された、「競争優位の戦略」の言い換えであり、実態はほとんど同じです。もっと遡れば、その原点は、「孫氏(約3000年前)」にも遡れるかもしれません。

 

こう思うと、新たに生まれてくる言葉が必ずしも時代の先端であるわけではないことがわかります。ファッションにおいては、最近「くすみカラー」や「ニュアンスカラー」が流行していますが、実はこれも、「パステルカラー」の言い換えであり、新しい色ではありません。実態はほとんど動かず、ただ名前を変えてそこに居続けるのだとわかれば、焦りや不安は軽減するのではないでしょうか。

 

もう一つが、「過度な安定」です。ある言葉が意味する概念が固定化されてしまうせいで、世の中に対して変化を生み出しづらくなっていると感じます。MECE(もれなく、ダブりなく)という言葉が中途半端に流布したせいでしょうか。

 

例えば、市場の細分化がこれに当たります。企業がマーケティングを行う際、ほとんどの場合、市場を製品分野だったり、性別や年齢でわけて考えるのではないでしょうか。市場細分化といえば、これをやること、という固定観念が動かせずにいるせいで、それに意味があるかどうかを考えられずにいる人も多いかと思います。

 

だからこそ、「セグメンテーション(市場細分化)の悪弊」という論考が、「イノベーションのジレンマ」の著者のクレイトン・クリステンセンから出されることになるのだと思います。

 

言葉や概念に対して、「こういうもの」という信頼が一度できあがってしまうと、何にでもそれをあてはめてしまい、その物事の実態から離れていってしまい、「うまくいかない」「意味がない」ことに労力を費やすことになってしまうのだと考えられます。その行き詰まったところに、1つ目の弊害の「新しいフリをした概念」が登場し、「私を学べ」と急き立ててくるのだから、これが特効薬に見えてしまうのも理解できます。

 

「脱・言語化」で言語化の負の側面を克服する

この2つの弊害の原因は、実は同じであると僕は考えます。それは、「言葉を疑わないこと」です。言葉を信頼しすぎているせいで、その意味を外せなくなりもするし、違う言葉で現れた焼き直しを、「新しいもの」だと思ってしまうのだと考えます。

 

僕らは、もっと言葉を疑って良いのです。そもそも前述の通り、言葉は、ヒトが勝手に世界をわけて認識し、共有するために使っている「記号」であって、実態ではないからです。

 

ヒトにとっては、イヌとオオカミは別物であり、それはイヌは「可愛く人懐っこい」一方、オオカミは「怖い」という、長い歴史が作ったヒトと両者との関係があるからです。ゆえに、鳥が両者を見れば、同じものとして認識するかもしれません。ヒトが「意味がある」と認識した単位で、勝手に世界をわけたつもりになっているだけなのです。

 

このように、僕は、言葉の意味が少しゆらいでいる状態のほうが、人はより柔軟に、かつより正確に世界を捉えられるのではないかと考えています。そして、そのために僕が重要と考えているのが、「学習」です。特に、物事の体系を学ぶことについて今回は「学習」という言葉を用います。

 

これまで人が作り上げてきた領域(経営学、経済学、哲学、物理学・・)を横断して学んでみると、不思議な現象に出会うことがあります。

 

ある学問で学ぶ概念同士の関係性が、他の学問における概念同士の関係性と類似していることがあるのです。これは、学問の領域は、分かれているようで分かれていないことを意味していると僕は考えます。この類似性を体感すると、言葉にゆらぎが生じます。そして、それを統合すると、新しい分野が「言語化」され、生まれたりもします。「マーケティング工学」のような、マーケティングと工学(統計学)の混じり合った概念が生まれてきます。

 

また、類似性を感じる一方、両者に類似していない微妙なズレを発見できるかもしれません。これは、既存の領域の体系において、見逃してしまっている部分かもしれず、それが新たな発見を誘発するかもしれません。これは、市場細分化の閉塞感を打破する助けになっているように思います。

 

例えば、美容導入液が挙げられます。これはおそらくですが、化粧に入る前の導入の化粧品などがあるのだから、肌のケアにもそういう導入に使うものがあってもいいのではないか?というような穴を発見したことが、大きな要因になっているように思います。僕達が言語化して同定していないだけで、世界には、僕達に見つかるのを待っている概念が無限に存在するはずなのです。

 

僕らは、学びを止めてはいけないのかもしれない

勉強には意味があるのか、役に立つのか、という永遠に続きそうな命題に対し、仮にそれについて自分なりに答えを提示するなら、「世界をより正確に捉え続けるためである」ということになるのかもしれません。

 

「言語化」と「脱・言語化」を繰り返し、「変わらないもの」と「変わってゆくもの」を適切に見分け、世界を捉え直し続けることこそが、本当の意味での「学習」なのかもしれません。

 

人は、もっと学び、もっと言葉を疑うべきである、と僕は考えます。

やてん

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