脱・正義中毒 「議論できる人」へのはじめの一歩 人はなぜ他人を許せないのか 書評

過剰な正義感が生む「人格否定」と「真の議論」
昨日、弟に勧められてこんな本を読みました。
この本では、著者の中野さんが、芸能人や政治家へのSNSを使った過剰な攻撃を「正義中毒」と称し、それらの人々が、議論ではなく、人格攻撃をしている事を問題視しています。そして、その人格攻撃が起こる仕組みと、そこから抜け出す方法を、脳科学の側面から提案してくれています。
この本の中で個人的に面白いと感じた点は、議論は目的語に「人」を取らないという事です。中野さんがフランスに滞在していたとき、フランス人の知人から聞いた話だそうですが、フランスでは「論破」には「人(誰か)を論破する」という使い方が存在しないそうです。また、フランスと日本を比べて、フランスでは、意見を一つしか持たない事より、複数持つ事が良い事だと考えられているとも語られおり、興味を惹きました。その背景から、フランスでは議論が活発なのだそうです。
まず、議論が目的語に人を取らない事は、考えた事がなかったので一つ発見でした。「論破」という言葉は日常的によく見る使われ方として「上司を論破」とか「ひろゆきが〇〇を論破」のように、人を目的語に取るように感じていました。そういう使われ方をしている時点で、日本においては「論破」は議論ではなく、人格攻撃と同じ意味で使われていたのかもしれない、とも感じます。
メタ認知で「正義」を相対化する
意見を複数持つ、というのは、この本で語られる、「議論」の真髄であると考えます。そもそも、この本では、「脳科学的に、人は他人を攻撃するようにできている」という脳科学的な事実と、「人(特に日本人)は、種の存続の過程で、他人を傷つけられるものが適応して生き残った」という考察を前提にスタートし、それを回避するために「メタ認知」を使っていく事を提案しています。メタ認知とは、「自分を観察する自分」を作って自分を俯瞰して認知する事です。怒ったとき「あ、今、自分は怒っている」と自分の怒りに気が付くようになるという事です。
メタ認知の良いところは、自分を相対化してくれる点だと、僕は考えています。意見が湧き上がったとき、「仮に自分の意見が支持されないなら、それはどんな意見が他にあるからなのか」と、別の可能性を常に考えられるようになります。別の可能性を考えられると、自分の物事の見方が、たくさんあるうちの一側面だとも気が付けます。よって、自分の意見が正しい場合と、そうでない場合があり、それぞれの成否を分ける条件についても考えを巡らせることもできます。
「この見方で考えると、この意見は成り立つ。この立場では、こういう根拠を持っており、それを前提に話を進めているからだ。」「でも、今考えるべきは、その前提が異なる場合についてだから、その意見は成り立たない」・・・メタ認知を使えるようになると、いろいろな視点・視野・視座で物事を考えられるようになります。
いくつもの側面を考えると、必然的に、目的語が「人」にならなくもなります。メタ認知を用いた議論では、意見の論拠や前提など状況の適切さを「意見の正しさ」の尺度に用いますから、意見を発言する「人」が容易に目的語にはなりえません。このメタ認知は、人格攻撃から離れ、議論へ足を踏み入れられる確実な方法だと感じました。
浴びるように読む、読んだら勝手に脳がほぐれる
もう一つ、僕はこの本を読んで感じた事がありあます。この本は、噛み締める本というより浴びる本だという事です。メタ認知を既に意識的に扱える(と思っている)自分が読むと、この本は、中野さんの意見と、根拠との繋がりを読んで、メッセージは何か、自分が納得できるか、できないか、それはなぜか、を追いかける読み方になりました。それこそ、中野さんと議論していた感覚に近いです。これは、噛み締める読み方です。
それはそれで楽しかったのですが、自分はこの本のターゲットには属さないとも思います。メタ認知の重要性や、それを鍛える方法が書かれている事から、メタ認知を知らない人に向けての本だと考えられるからです。つまり、中野さんと議論をする「噛み締める読み方」は、本来の読み方ではないのでしょう。
本来のターゲットは、「正義中毒」を抜け出したい人、あるいは、その「正義中毒」をこの本に非難されたと感じ、どんな本だ(怒)と非難しようとした「正義中毒」な人、だと考えられます。そこで僕は、自分のメタ認知を一旦横に置き、「正義中毒者」になったつもりでこの本を読み直してみました。
結果、良い発見ができたと思います。仮に自分がメタ認知を知らず、体得もできておらず、この本を手にとったとしても、自分は考え方を少し変えられ、いずれメタ認知ができるようになるかも、と想像できます。
この本では、まず、「正義中毒」で人格否定をする人達がいる事や、読者自身がそうなっているかもしれない事実を認識してもらい、それがヒトの性であることを伝え、一旦安心してもらい、その背景を様々な角度で考察し、読者を議論の場へ手を引いてゆき、「ヒトの性に、少し反する」方法としてメタ認知を提案し、議論できるようになろう、と提案しています。
読んでいると、批判的な考えがほぐれていく感覚があり、読む事で凝り固まった正義感から一歩引くことができる本でもあると感じます。まさに、浴びるように読む本だと感じます
おわりに
他人を許せない人、つまり議論できない人も、この本を読めば、正義中毒を抜け出すきっかけを得られると感じました。あとがきで「自分の本には解決策が書かれていない」と書かれていますが、解決策を書いていなくても、本を読むこと自体が一つのレッスンとして機能する、良い本だったのではないかと感じます。
自分は他人を許せないな、議論できないな、と、日々反省しているならば、ぜひ、本書を手にとって、人を許せない、議論できない理由と、その対策としてのメタ認知を鍛える方法を、本書から知ってもらえたら、と思います。きっと、読者を、そして、読者の周りの人を、正義中毒から救い出す一助になると思います。
制作:メディアに学ぶ
提供:あたまのなかのユニバース