「社会」「経済」の正体に迫る。サピエンス全史を考察

こんにちは、やてんです。遂に、「サピエンス全史」の続編に当たる「ホモ・デウス」が発売されました。待ちわびました。これの記事はまた書こうと思います。

 

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さて、その「ホモ・デウス」を読む前に、内容を思い出すために「サピエンス全史」を読み直しました。パラパラ読みのつもりが、じっくり読み直してしまい、その内容がいかに興味を引くものだったかを再確認しました。

 

ただ、以前と変わったことがあります。以前に読んだときから今までに、いろんなものを「サピエンス全史的な視点」で見て、考えてきています。そのため、以前より多くを考えられましたし、考えを発展させることもできました。

 

ということで今回は、以前書いた記事を、今現在の考えをまとめた記事へリニューアルしてみました。今回は、読んで内容をまとめる「要約」と自分の「考察」に分けてまとめます。

 

記事が長くなってしまう都合、今回はタイトルにある「社会」と「経済」に関係する部分に関して要約を記します。

 

要約:なぜ人類は我々だけなのか

我々人類は「ホモ・サピエンス」という種です。全ての生物は、それぞれ樹形図のように分類されており、僕らヒトは、ホモ(属名)のサピエンス(種小名)に当たります。

 

他の動物で例えると、例えばイヌ属というのがあり、イヌ属には、イヌもオオカミも含まれます。つまり、イヌとオオカミは同じイヌ属ですが、下の名前(種小名)が違うものです。

 

では、ホモ属には、どんな仲間がいるのか・・。実は、もういないのです。正確には他にもいたが、絶滅したのです。見出しの「なぜ人類は我々だけなのか」というのはホモ属はなぜ我々だけなのか、ということです。

 

「サピエンス全史」では、人類が我々だけになった一番大きな要因として、我々が多様な言葉を話す・記す力と、それを利用した情報を共有する力をつけたことだと提唱します。

 

前者の「多様な言葉を話す・記す力」は、この文章や会話そのものです。後者の「情報を共有する力」は、さらに重要です。僕らには、言葉を用いて情景などの情報をチームの中で共有し、互いに協力する、類稀な力があったのです。

 

「サピエンス全史」では、想像力が人類に備わった現象を「認知革命」と呼んでいます。この原因不明な「認知革命」によって、我々はチームで戦略を練り、互いに協力をする術を得たのです。

 

戦略を練るだけではありません。我々の手足の指は道具を扱うのに優れており、我々は道具を器用に駆使し、自分より大きな動物だろうが、他の仲間(ホモ属の)だろうが、皆殺しにしてきたというのです。

 

ちなみに、他の仲間(ホモ属)と書いていますが、サピエンスは、似ても似つかない同胞の存在が許せなかったのではないかと、著者は想像しています。

 

「他の人類の遺骨を調べると、争った跡がある」そうですが、サピエンスが兄弟を殲滅させた明確な根拠はありません。しかし、可能性としてはあり得ます。事実、同族嫌悪は実は僕らにも根ざしているのではないかと、僕は考察しています。

 

兎にも角にも、こうして僕らは唯一のヒト属(ホモ属)になり、食物連鎖の頂点へとを登り詰めました。

 

考察:「社会」も「経済」も人の心が作った「オバケ」

サピエンスは、多くの動物を亡き者にしたとされる想像力によって、今日、「社会」や「経済」を回しています。これらも、人の想像力の産物です。こういう「想像力の産物」のことを、サピエンス全史では「虚構」と呼んでいます。

 

前項を簡単にまとめると、「サピエンスは虚構を作れたからただ一種、生き残った」ですね。

 

さて、見出しで登場した「社会」と「経済」。これも人が想像力で作った産物、つまり虚構の一種ですよね?

 

僕は「社会」を「サピエンスが意思伝達をするために作った目に見えないもう一つの世界」だと定義します。つまり、僕らは、「自然」という物理的世界に身を置き、同時に「社会」という概念的世界にも身を置いていると考えるのです。

 

そして、もう一つ、「経済」です。僕は「経済」を「サピエンスが価値を交換する概念的世界」と定義します。「価値」とは、今でいう、「商品」「サービス」「お金」などです。

 

人が作ったものなのだから、社会も経済も人の心によって動くのです。つまり、人の心が動くところには価値が作られ、それを他の価値で交換します。

 

以前は物々交換だったのが、「お金」という保存もできる共通のルールができたおかげで、僕らは今、色々な国から食べ物を手に入れられているし、雨風を凌げています。

 

ところで、なぜ僕はオバケと命名したか。それは、想像力で作りだしたにも関わらず、掴み所がなく、なおかつ扱いきれないという点でオバケに似ていると感じたからです。人は「経済」というオバケに振り回されているのです。

 

具体的にどういうことか。また、それをどう解決することが良いと考えるのか。詳しく考えてみます。

 

考察:制御不能になった「経済」

さて、昨今、『「稼ぐ人」と「稼げない人」の違い』とか、『お金の再定義』とかの本が書店で多く見られます。お金に苦しんで要る人が多く、そういう情報の需要があるのでしょう。

 

実はどんな風に書き換えられても、経済は、前回引用した「虚構」で、それが人の心が作ったものなのだから、人の心を動かして価値を提供すれば、対価でお金が入ってくるという話で終わります。

 

しかし、人は、判断力が常に優秀なのではく、錯覚も起こします。また、これらは誘導させることもできます。この人の能力(善悪は別として)によって、本来そこまで必要なかったものを「価値あるもの」と判断してしまい、お金と交換する人が後を立たない状態になっています。

 

自分はそうではないと思っている方。皆さんは、買ったはいいものの、全く着ていない服をお持ちではないですか?食材を余らせてしまい、捨ててしまったことはありませんか?

 

それが、相手にとってはお金になったが、自分にとっては価値が低く(全然使わないモノ)なった例です。さて、自分がしてきた多くの買い物の中では、お金は自分にとってどちらの価値になりましたか?

 

お金が高い価値に変わる割合は意外と少ないのかもしれません。これが、僕が経済を「オバケ」と呼ぶ理由です。想像によって生まれ、掴み所がないし、時に、人に悪い影響を与えるということで、オバケと命名しています。

 

では、そのオバケに僕らは操られることしかできないのでしょうか。そんなことはないと思います。

考察:自分の内面を鍛えて経済オバケを撃退する

「汎用性の高い価値」に変わった経験が意外と少ない人は、どういうふうにオバケと付き合ってゆくのか。

 

僕自身振り返って見ると、お金に振り回された生活を送っていたなと感じています。でも今は、自分をある程度コントロールできているし、見える限りのオバケを認識できています。お金もなくならないですし。

 

僕が満足しつつもお金を浪費しなくなったのは、二つの理由があると思います。

 

一つは、要るか要らないかを生活の中で試してから買うようになったからです。何か物が欲しいと思った自分に対して、「それを使う生活」のイメージを先にするのです。

 

故に、物を即決で買うことは最近していません。イメージの中で、生活にしっくり馴染むものだとわかってから買うためです。

 

むしろ、「こういうの欲しいなー」という必要からスタートしてものをネットで検索して探すことの方が多いです。

 

もう一つの理由が、「ものを使わなくても工夫して生活できることが面白い」という考え方が育ったことです。

 

いろんな作業を並行しながら時間短縮をして物がないハンデをクリアしたり、生活の中で時間の使い方に気をつけたり、工夫をする生活が、物欲を満たすことと同様に満足感を与えてくれることに気が付いたのです。

 

買い物は勝負事ではないですが、楽しむためには強さが要ると、漫画「ハイキュー」で烏養元監督が言っていましたが、ちょうど自分が工夫を掴みかけていたときに漫画を読んだので、妙に納得した覚えがあります。

 

想像力の生み出したオバケと付き合うなら、こちらも想像力を使って対処しようということですね。

 

読者の皆様への一つの提案

さて、経済はサピエンスが想像力で作ったが、その対処ができていない。そんな経済をオバケと称し、色々考えたのですが、一つ、ここで提案があります。

 

物心ついた状態から、工夫をする力をつけるためには、教育をすることが良いと思っています。現在、教育課程は、「生産者を育てる」側面が目的として語られることが多いかと思います。

 

僕自身、最近まで学校で勉強してきたことが、どのように仕事で応用できるかばかりを考えていました。学校では時間的余裕がなく、こういう訓練や教育もできないかもしれません。

 

でも、学生って、生産者というよりも消費者だし、生産者としての話は他人事になっちゃうよな、と最近思います。そこで、消費者として想像力を働かせることが重要だと訓練する場を、家庭で作ってあげることが、オバケの影響を減らす力になるのではないかと思います。

 

そうすれば、有限な資源を、より無駄なく、より大切に、よりゆっくり使って皆が生きてゆける「オバケではない」社会になってゆくのではないかと考えます。

 

 

 

 

 

やてん

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