記憶のリュックサックと着想ー記事を毎日更新する方法

こんにちは、やてんです。最近、自分を見つめ直すことが多いです。仕事から離れて、住み慣れた土地からも離れて、話す人もいない(厳密にはいる。ルームシェアなので)と、何日かほとんど会話がないこともあります。

 

無言の行ですね。喋らない修行。思いを声に出さないことが続くと自然に自分の内面に目が向きます。最近気が付いたのは、記事を書き下ろせるようになったと言うことです。ブログを1年くらい続けて、書いた記事は、ボツにしたものも合わせて延べ150くらいですが、最近はノートに内容をまとめてから記事を書かなくても記事は書けるようになりました。

 

これは初期に比べたらだいぶ成長しています。多分、今初めの頃に書いていた記事を読んだら恥ずかしくなりますね。

 

もうちょっと心の奥に目を向けてみます。記事をどうして書けるようになったのか。今回は、自分なりの記事の書き方をまとめておこうと思います。後で見返したとき、あの頃の自分は、こんな記事を書いていたんだな(笑)と思い出すときのためにも。

 

「誰のために」を考えると、書けなくなる

僕は、これが一番重要だと思っています。僕のブログの記事の中でも閲覧数がバラつきますが、絶対的な共通点は、「体験に関する記事」です。例えば、ツアーではなく、Airbnbでオーストラリアに行った記事などです。

 

もう一つの傾向は、「著名な商品についてのレビュー」で、しかも、「独特の着想がある」ことが求められるようです。僕のブログから挙げると、クルトガの記事や、オレンズの記事進撃の巨人の記事などです。

 

ここで、ネタについて考えてみると、海外に何度も行けるか?筆記具に関してほど、何にでも詳しくなれるか?と疑問を持つと、「無理」です。これらの記事は、明確なターゲットが決めて書けるし、閲覧数も稼げますが、これを毎日やろうと思うと、ネタを探せなくなって、記事は書けなくなります。

 

きっと多くの人は、こうして記事が書けなくなるんだと思います。「しょうもない記事を書くのは嫌だ」と思うのかもしれません。なまじ、文章を書くことはできてしまうがゆえに、ブログで文章を使って文章を書くこと以外をやりたくなってしまうのかもしれません。何かのセールスとか、誰かにとっての自己啓発に、とか。

 

僕も、そうやって悩んだ時期がありました。自分は、稼ぐためにブログを書いていたんだっけ?と。でも、最近違うなって思いました。

 

自分の頭で考えることは、楽しい

単純に、こうやって分量多く自分の考えをまとめておけることに、魅力を感じているし、ここで整理して書いたことは、人にも理路整然と話せます。クルトガはみんな持っているし、クルトガの話はとっかかりとして役に立っていますし。そんなことがわかってきて、やっぱり、自分の考えを整理するのって楽しい、って思いました。

 

そうすると、スルっと心が軽くなりました。僕はだらだら書いてまだ1年なのに、ブログで何をしようとしていたんだと。たわいの無いことでも、自分が感じたことを書き綴っておくでもいいじゃ無いか。そう思うのです。

 

ブログで「稼げる人」の道を捨ててでも記事を書きたい

目的を「稼ぐ」「閲覧数」とかに絞って書くことで続けられる人は、お金などに対して執念が深いのだと思います。あるいは競う相手が身近にいて、どうしても負けたく無い、そんな環境に身を置いて記事を書いているとかですかね。

 

僕は、お金は好きですが、かと言ってそのために記事をガンガン書いていく、と言うことはできません。そんなに執念深く記事のネタを探すことができないのです。これは、もう価値観の問題だと思います。ここでネタを猛烈に探せる人は、きっとブログでお金を稼げる人なのだと思います。まぁ、僕が根性無しとも言えるかもしれませんが。

 

「ブログ書いてる」って人に言うと、その返事に「目的は?アドセンス?」って聞かれるんですよね。ちょっと前には、そう聞かれるたびに「稼げないブログ」の悔しさも感じました。稼げないんだったら、ブログ書く必要なくて、他のことやったらよくない?って自分でも思ったりしましたもん。

 

でも、思ったのですが、稼ぎたくて僕は記事を書いているかといえば、全然そんなことなくて、ただ、自分の中で雑多な考えがまとまってゆく過程とか、次の記事で書くような、普段のちょっとした気づきをまとめておいて、一冊の本のようにしてゆくのって、なんか自分の人生観について執筆しているみたいで面白いんだと気がつきました。

 

別に稼げなくていい。いいこと書こうなんて思わなくていい。自分をまとめる記事なんだ、と。思えば、楽なものです。ブログの名前は「あたまのなかのユニバース」。あたまのなかの宇宙を僕はここに書いているんです。

 

そう思った途端、記事を書くのが楽しくなりました。と、ここまで書いて、自分のネタ探しの方法をまとめるともっと長くなるので、今日はこの辺で。

 

前回は、個人的に思うブログ継続に対する考え方に関する記事を書きました。

 

今回は、僕が普段やっている記事のネタ作りに関して書き留めておこうと思います。

 

「なんか気になる」を溜めておく

日常でふとした時に、妙に気になることがあります。「あれ、なんか気になる」ってなります。デジャヴとも言うのか、なんか似たようなもの・景色を見たことがあるような・・気がする、感覚。僕は、これを大事にしています。

 

自分の目に入って、訴えかけてくるものは、自分が今までに、その物とその物を通した経験のセットが、脳内のどこかにあるからだと思います。

 

また、漫画や小説、ビジネス書などを読むと、「なるほど」と妙に納得してしまうところもある一方、「そうなんだ」と流す程度のこと(だいたいこっちは思い出せない記憶になる)があります。「なるほど」となるところは、自分が似た状況に遭遇していたり、似た経験をしていたり、似た考えを持っていたりするときに沸き起こることだから、他よりも鮮明になるのです。

 

この記憶と「なぜか、目に留まる」物が繋がることを、「着想」と僕は呼んでいます。

 

秋元康さんが作詞した曲を思い出すと

秋元さんが書いている歌詞や曲名の中では、「出せば売れると思っているのか」とすら感じてしまう曲名がたくさんあります。「ロマンティックいか焼き」とか「ポニーテールとシュシュ」とかですね。

 

歌詞を聞けばわかりますが、それらは物と(例えばイカ焼き)他のもの(恋愛とか)は似ているよね、というような歌詞で、聞いていると「なるほど、そうきたか」と思う歌詞が多いです。秋元さんは僕が「着想」と読んでいるものを曲名にしているのです。

 

では、その材料はどう調達しているかと言いますと、普段、気になったものをあたまの中に溜め込んでおいて、歌詞を作ろうってときに、その溜まった寝たから拾い上げるのだそうです。

 

この溜め方を彼は、「記憶のリュックサック」と呼んでいました。キャッチーで良いなと思い、僕も使わせてもらうことにしました。「記憶のリュックサック」と「着想」が、僕にとって、記事のネタなのです。

 

 

全く同じことを感じる人はいない。つまり「着想」も人それぞれ違い、どれもオリジナルになる

「着想」というのは、新たな「理解」とも言えるかもしれません。「理解」とは、情報同士の繋がりです。また「着想」とは、脳内にある既存の情報同士の繋がりを、別のものとの間とも見つけたということです。つまり、「着想」とは、新たな「理解」なのでしょう。

 

「人と人とは分かり合えない」ということについて書いた記事で述べましたが、人は、脳内に全く違うネットワーク(情報同士の繋がりの数、種類、繋がりの強さ)を持っています。全く同じ人なんてあり得ない。つまり、全く同じ「理解」の仕方もあり得ないし、全く同じ「着想」もあり得ないのです。

 

つまり、自分の見つけた着想は、どこかでは重なることもあるかもしれませんが、どこかに必ず独特なものを発見できるはずです。ちなみに僕の中で最も「舞い降りてきたな」と感じる着想は、クルトガとipod nanoのカラーバリエーションです。当時、同じ時期に発売したこれらは、カラーリングが似過ぎていて、どう考えてもクルトガが真似たとしか思えないのです。クルトガの記事に関してはこちらをご覧いただければと思います。

 

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そっくりではないでしょうか?

 

こういう独自の発想(自分で言うのもどうかと思うが)が、必ず続けているうちに発見できるはずですし、続ければ続けるだけ、脳内で繋がりが増えてゆき、どんどん着想を使った記事は書きやすくなってゆくのだと思います。

 

さて、僕自身は、一体どこまで記事を書き続けられるのだろうか。ちょっと、気になりますね。

 

 

 

 

 

 

 

 

やてん

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