「生きる・働く意味」の在りかと転職に関して

写真は、千葉の房総の海と夕日です。

 

昨日と一昨日は大阪の友人がこちらに遊びに来てくれて、彼のここ2年の体験の話を聞いたり、自分の考えを話たりと、色々刺激的でした。

 

うちに来て、晩は、ボードゲームもした一方、彼が日頃感じている課題に対してプレゼンを行ってくれたり(なんと、パワポを作って、それで発表してくれた)、充実していました。また遊びに来てくれるのを楽しみにしていますし、こちらが大阪に行くときも会えるのが楽しみです。そんな感じで、ここ数日少々サボり気味だったブログの更新でした。

 

転職は贅沢な悩みなのか。当然の権利なのか。

最近、そろそろ転職をしようとも考えています。ノート2冊分程度(80回分)は中小企業診断士試験の過去問に当たって来られましたし、今月あたりに就職先として興味があるところにアプローチしてみようと思っています。1社、ぜひ一緒に仕事を、といってくださっているところがあり、そちらか、自分が志望している会社のどちらかで決めようかと考えています。

 

と、転職先に迷う自分を思うと「ずいぶん贅沢だなぁ」と思います。転職の際に僕が今考えているのは「業界・社会へのインパクト」と、「成長性」と、「社会から認知されていない」の三つです。前職でも楽しい時間を過ごしたことも事実で「それで転職するのは勿体無い」といろんな人に言われました。親とも会社の人事ともバトルをくり広げました。それでも、より大きな成長環境が関東にあると思ったからこそ関東に来ました。

 

転職の理由とか、志望理由とかを自分で整理していると「なんで自分はこうも成長したいのか」とか「インパクトを与えることがなんで良いのか?」「意味があるのか?」とか、そんなことを悶々と考え出したりもします。負のゴールデンタイムという嫌な奴です笑。今日は、そんなもう一人の自分、「転職は贅沢な悩みなのでは?」と思っている自分への回答を示しておこうと思います。

 

「生きる意味を考えることこそ無意味」という考え方

人は、自ら目的を持って産まれることはありません。親が産みます。だから、僕らが生を受けることには主体性がありません。生きる意味とか、産まれる意味を考えるなら、「特にない。ただヒトの数が増えただけ」が答えだと思います。

 

また、地球、宇宙レベルで、ヒトが環境の生態系、食物連鎖の一部であると考えたとします。僕は成長を望んでいますし、世の多くの人が、さらには、富を持つような人もが、自分や世の中には何かしらの不満を持っています。そういう不満の解決や、ドラッカーの言う企業の使命の「新たな顧客の創造」とて、僕ら自然の一部が小さくやっていることだし、「どうせ地球もいつか無くなるし、研究なんか意味ないし、環境とかに関しても考えなくても良いのでは?」と思ったりします。僕は「人間は地球の消滅を促進させる、つまり、地球系のエントロピーの増大を加速させるためのプログラムではないか」と、サピエンス全史を読んで以降思っています。

 

このように自分がいる場所を宇宙の一部だと考えると、僕の転職なんて社会や地球に与える意味なんてないし、仕事だって「いつか無くなる地球」でやってるし、意味ないな、と思います。そうなると、本当に生きている意味ってないなと思います。ただ食べなきゃ死ぬし、死にたくないし、長生きしなきゃいけないし、だから食べるためにお金という道具を稼いで、お金で食べる必要がある。だから働く。と思ったりします。

 

一般的にそれ幸せだと思う人は、恋人作ったり、ものを買ったりします。人と話したりします。一方、どれだけ生産性のある話をしても、家族になっても、子供を産んでも無駄であるとも考えられるし、であれば、転職なんてする必要はなくて、「今の仕事をずっと続けて、成長とか考えずに、行き当たりばったりで何も考えず無心で流れに任せて生きてゆく」選択肢は、実際にあるとも思いますし、そういう自分を受け入れている人もいるのだと思います。「置かれた場所で咲きなさい」という言葉はそういうことを体現しているのだと思います。

 

「置かれた場所で咲きなさいは言い訳」という考え方

ヒトの欲が動くと、お金が動きます。欲を満たす形は、本質は変わらないとはいえ機能面が変わってきています。その機能が変われば、会社の必要・不必要も変わりますし、今の会社がなくなったら、困る。こういう考え方の元、「人は成長しなきゃいけないし、転職できる選択肢は必要だ」という風潮もあります。

 

そういう言説を持つ人達は「置かれた場所で咲きなさい」は、自分の置かれた場所より良い場所を探さずに、諦めた・あるいは知ろうとしなかった自分を納得させるための言い訳を作っているだけだ、と言うこともあります。この意見も一つの考え方だと思います。世の中は変わっているし、食べていくにはお金が必要だし、仕事の存続の見通しがわかりづらく、将来の不確実性が高い現在、そんなこと言ってられない。「置かれた場所で咲きなさい」と言う人に限って歳を召していて後先が短いし、今の若い人にその言葉をかけるのは筋違いだと。これもその通りだと思います。

 

僕は「生きる意味は無い」との意見にも賛同できますが、かと言って自分の身を川の流れに委ねることはできません。将来への不安があるからです。だから成長を求めます。母親にも「置かれた場所で云々」と言われましたが、あと多くて80年生きるかもしれない僕の不安を理解できるわけもないくせに「親は子供のことをわかっている」と親の面をされるのには腹が立ちます。「そんなに産んだ自分たちが偉いのか。お前達が産んで育てたから自分はこうなっているのに」と、腹の中で真っ黒い煮物がプクプク沸騰するような嫌なことを考えたこともあります。ご存知かもしれませんが、僕は嫌な奴でダメで親不孝な子供でもあるのです。

 

要するに、「置かれた場所で咲きなさい」は、人を大きな自然系の中で考えるならその通りですが、一方「社会は絶えず変化ているから、その社会で生きるには時代に合わせて主体的に成長しなきゃいけないし、成長には目標(意味)が必要だ」と言う考え方もその通りだと思います。両者は、見ているものの枠が違うだけで、どちらも間違いなんかじゃないんだと思います。立場が違うだけなのです。

 

どうせ生きる意味がないのであっても、時間を幸せに使いたい

両者の極端な考え方があると知ってもなお、僕は自身の成長を熱望します。それは、成長の中で何かをできるようになってゆくことが面白いし、それで役に立つことは嬉しいし、人に頼りにされることも嬉しいからです。

 

また好奇心もあり、古く堅実なものの新しい一面を知ることも、単に新しいものを知ることも好きです。さらに、その中でも個人的に優れている、と思うようなデザイン(色や形状、機能を総合した意味で)の物を見ると、それを持ちたいし、使いたいと思います。最近は京都の「なちや」と言うところの純漆の器を親にプレゼントしたいと思っています。良い物を使っていると気持ちを豊かにしてくれると思っているからです。母は料理が好きですから、良い器を使ったらもっと料理が美味しそうになるなとも思いますし、自分もその料理を食べてみたいなぁとも思うのです。転職して給料入ったらプレゼントする予定です。

 

大局を見ると、「個人の幸せ」「周りの幸せ」が間違っていないこともわかりますし、それが「宇宙の真理」なのかもしれません。しかし逆に焦点が合わないせいで、一気に人生に喪失を感じることも当たり前なのだと思います。

 

それで「人生に意味なんて無い」とか「転職は贅沢」なんて片付けてしまわずに、「『自分の幸せ』を探求することは楽しい」と素直に自分に向き合うことも良いではないかと。成長や社会への大きなインパクト、それへの貢献、勝ち得る信頼、または仲間や家族との楽しい時間を求めることは、それこそ自分の根源的な欲で、従うことは良いのだと。自分の時間を最大限充実させようとすることは、宇宙にとって意味がなくても自分にとっては良いことですし、やっぱり僕は、転職に関しても貪欲に考えてゆこうと思います。

 

負のゴールデンタイムがやってきたときには、この記事を読み直そうと思います笑

 

 

 

 

 

やてん

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